松岡正剛の千夜千冊・1418夜 梅原猛 『日本の深層 — 縄文・蝦夷文化を探る —』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1418.html 〜 梅原猛の母上は石巻の渡波(わたのは)の人である。石川千代という。父上の梅原半二は愛知の知多郡内海の出身だが、東北大学の工学部に学んで、そのときに石川千代と出会い、梅原猛を仙台で生んだ。 〜 しかしその懊悩は、やがて梅原の不屈の探求心と「負の思想」を駆動させてぶんぶん唸る内燃力となった。それが仏教研究となって火がつき、人麻呂の死への挑戦となり、それらがしだいに古代日本の各地の謎の掘り起こしへと広がり、総じてはいまや「梅原日本学」にまで至ったわけだった。 人生においては説明しがたい事態との直面こそ、しばしば「ヴァレリーの雷鳴の夜」( 12夜 )をつくるのだ。 〜 文庫本の解説は赤坂憲雄( 1412夜 )が担当した。「『日本の深層』は疑いなく、一個の衝撃だった。大胆不敵な、と称していい仮説の書、いや、あえていえば予言の書である」と書いている。 〜 さらに金色堂の一字金輪像を眺め、「東北のみならず、日本の仏像の中で最もすぐれた仏像だ」という感想をもつ。これは梅原らしい目利きであった。毛越寺の庭を見て観自在王院のよすがを偲び、毛越寺とは毛人(えみし)と越の国の蝦夷とを合わせたものかと想っているのも、なるほど、なるほどだ。 〜 花巻温泉に泊まって、和賀町で高橋徳夫・阿伊染徳美・菊地敬一・門屋光昭らと語りあい、この町の出身の東北学の泰斗・高橋富雄( 1415夜 )の東北論・蝦夷論に思いを馳せた。 梅原は、倭国といういじけた名を「日本」という国名に転じ、大王(おおきみ)やスメラミコトに新たな「天皇」というネーミングをもたらしたのは、ほかならぬ聖徳太子の仕事だろうと断じてきた人である。ただし、それにしては当時の日本も天皇も、倭国このかた「西に片寄りすぎてきた」とも感じていた。そうしたなか、高橋富雄が北の日本を称揚し、「北上はもとは日高見で、日の本も東北がつくった言葉だった」という見方をつねに主張しつづけてきたことには、いたく酔わせられる。この気分、ぼくもとてもよくわかる。 〜 梅原は傑作『祭の暁』や超傑作『なめとこ山の熊』...