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松岡正剛の千夜千冊・1852夜・絶筆編

松岡正剛の千夜千冊・1852夜・絶筆編 2025/06/02 中島秀之『知能の物語』 URL>  https://1000ya.isis.ne.jp/1852.html 〜  「物語」と銘打ったのは、これが教科書ではないこと、人工知能の歴史の物語に因んでいること、言語はパターンよりも物語力をもっているのでそういう言語の力に寄り添って知能の物語に接近したかったこと、この3つの理由によっているのだと言う。  ぼくはこういう人の告白的文章が大好きで、以前ならインド哲学の松山俊太郎さんや中国文学の草森紳一( 1486夜 )さんが、そうだった。… 。けれどもそのぶん本人の洞察は冴えてくる。  正直いって、こういう文章は読みやすくはない。しかし、一見抜け目のないように設えられた学術論文なんて、レフェリングの網をくぐるために書くようで、そんなものをリアルタイムに読まされるのはつまらない。いずれ大きくまとまるか、それなりに陶冶されたところで読めばいい。それよりも、語るように、綴るように、思索が一所不在を彷徨しているようなものこそ、実はプラトン( 799夜 )やモンテーニュ( 886夜 )や荻生徂徠( 1706夜 )やシオラン( 1480夜 )やレヴィナスがそうだったように、歴史的脈動を伝えてくれるものなのだ。 … 〜

松岡正剛の千夜千冊・1703夜

松岡正剛の千夜千冊・1703夜 『ギルガメシュ叙事詩  -(付)イシュタルの冥界下り -』 [訳]矢島文夫 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1703.html 〜  本書は山本書店の山本七平が、矢島文夫を見込んで翻訳してもらったもので、原典は井筒俊彦さんが提供した。 〜  主人公はギルガメシュで、叙事詩の中ではウルクの都城の王である。半人半神だ。力強い英雄ではあるが、暴君でもあって、民衆からは恐れられていた。とりわけギルガメシュ王が乙女たちを略奪する悪行には、ウルクの民は耐えられなかったらしい。 〜  行く手には数々の艱難辛苦が待っていた。二人はこれらを「イニシエーション」(通過儀礼)としつつ、なんとか杉の森に辿り着いた。ここで怪物フンババとの決闘が始まった。首尾よくフンババを倒すと、二人と一行は周辺の杉をことごとく伐り倒した。よほど良質の杉だったのである。 〜  フンババの頭部が切断されてウルクの都に持ち帰られたものの、その眼光は死して衰えず、周囲を見張っていたという記述は、その頭部に邪神や邪気を祓う力が仮託されていたのであろう。ぼくには将門の首の伝説を想わせる。 〜  それで合点がいくのは、荒俣宏君( 982夜 )が月刊ペン社の妖精文庫のために訳したジョージ・マクドナルドの傑作幻想小説『リリス』(ちくま文庫)は、オリエント幻想解読のための必読書だったということである。 〜  これでわかるように、イシュタルはかなり複雑な性格をあわせもつ。豊饒をもたらすとともに冷酷であり、慈悲に富むこともあれば愛欲に走ることもある。相手によっては残酷な戦闘を好みもする。べつだんこういうことはめずらしくはない。すべては二重的で三重的で、裏腹なのである。しかし、古代文明においてはここにさまざまなアトリビュート(属性)がつく。  楔形文字は葦の茎の形状を象徴する。植物が文字のシンボルなのである。植物は年々再生することもあれば、枯死することもある。文字によってあらわされる物語にも再生と枯死がある。 〜

松岡正剛の千夜千冊・1677夜

松岡正剛の千夜千冊・1677夜 坂部恵 『かたり 〜物語の文法〜』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1677.html 〜  そもそもは「何もないウツ」(空)と「何かが顕在してくるウツツ」(現)とが対応しているのだ。「ウツ」は太初のウツロ(空洞)やウツホ(空穂)の状態であって、「ウツツ」は現実であり、現況である。  このウツからウツツへの進行の途中に、ウツリやウツロイやウツシが動く。それは「移」であって「映」であり「写」であるような、何かを移ろわせつつ映し写されていく絶妙のプロセスである。こうしてウツリやウツロイが進捗していくと、そこに突如として「顕し」が現れてきて、世の中から見ればこれが紛うかたなきウツツとしての現実に見えてくる。  ということは、ここには最初から何かが隠れていて、それが徐々に顕われてきたのだというふうにも推理できる。ウツは何もないカラッポのようでいて、そこには何かが胚胎していたのである。 〜  いろいろ考えていくと、事情ははっきりしていた。「うつし」はこれらをすべて含んだもので、かつそこにさまざまな「しるし」のさまがわりを示しうる方法だったのである。ただ、アウエルバッハもボードリヤール( 639夜 )も、その「さまがわり」を説明できなかった。こうして坂部はこの「さまがわり」に言及できた思索者をさがし、それがチャールズ・パース( 1182夜 ・ 1566夜 )にあったことに思い至るのである。 〜

松岡正剛の千夜千冊・1671夜

松岡正剛の千夜千冊・1671夜 清水良典 『あらゆる小説は模倣である。』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1671.html 〜  しかし寺山も澁澤も、自分が盗作をしたとはこれっぽっちも思っていない。丁寧に拝借したというくらいのつもりだろう。その「つもり」を彫琢して新たな「ほんと」にしたと思っているはずだ。かねてジャン・コクトー( 912夜 )が何度も宣言していたけれど、むしろ「オリジナリティを誇ることこそ、あやしい」のである。 〜  ガブリエル・タルド( 1318夜 )が『模倣の法則』(河出書房新社)に詳しく説諭したように、模倣は最も生産力に富んだ「社会の基礎力」であって「文化のエンジン」である。模写・模倣・模伝や参照・引用・敷延こそが社会文化を支えてきた。模倣すなわちミメーシスは、文化の文法だった。 〜  物語学のジェラール・ジュネット( 1302夜 )が、一次テキストから派生した二次テキストを大量に集めて分類分析して『パランプセスト』(水声社)という大冊をまとめたことがある。  パランプセスト(palimpseste)というのは聞きなれない言葉かもしれないが、再利用羊皮紙のことをいう。ヨーロッパに用紙が普及しなかった時代では羊皮紙はかなりの貴重品だったので、すでに書かれた古いテキストを薄くなるまで擦り落として新たなテキストを上書きすることが多かったのだが、まさにそのように歴史上の多くのテキストには、背後からエックス線のように過去テキストが透けて見えてくるとジュネットはみなして、そのことを「パランプセスト」呼ばわりわしたのだった。  多くのテキストはそもそもからしてリサイクル・テキストであり、リメーキング・テキストなのである。 〜  少なく見ても、物語には「物語内容(histoire)=語られている話の内容」「物語言説(recit)=テスキト」「語り(narration)=語り手による物語行為」という3つの相が複合的に含まれていて、そのためそれぞれのちょっとしたちがいによって千変の変化と万化の変容をもたらしてきた。どんな物語もこの3つの相に少しずつ新たな手を加えさえすれば、いくらでも改作できたし、変換できた。  物語は物語に出入りする時間、話の順序、登場人物、場所(ト...

松岡正剛の千夜千冊・1598夜

松岡正剛の千夜千冊・1598夜 ルイス・キャロル『 不思議の国のアリス』『 鏡の国の アリス 』 URL>  https://1000ya.isis.ne.jp/1598.html 〜  そうすると帽子屋が「同じことだなんてとんでもない!」と窘めて、なかなかの見解を投げかける。どう投げかけたのかというと、帽子屋は「そんなことを言ったらな、『わたしは食べるものを見る』というのと『わたしは見るものを食べる』というのも同じだってことになる」と言うのです。 〜   注目したいのは昭和2年に文芸春秋社から芥川龍之介( 931夜 )と菊池寛( 1287夜 ) の共訳で『アリス物語』を刊行したことでしょう。芥川が翻訳の途中で自殺したので菊地が続きを訳した。挿絵と装幀は平澤文吉でたいへん洒落ている。 〜 …「注釈訳」とでもいうものもいろいろ出回っていて、最も有名なのが異能数学編集者のマーティン・ガードナー( 83夜 )のものです。石川澄子が訳し、さらに『新注・不思議の国のアリス』(東京図書)として高山宏が訳した。 〜   いま、世の中はサクセス・ストーリーばかり。けれどもアリスの物語に出てくるような、おかしな失敗の連続こそ、伝えたほうがいいに決まっている。そういう意味ではグリム童話( 1174夜 )やカフカ( 64夜 )やミラン・クンデラ( 360夜 )のような物語が、いまこそ巷間に必要なのだと思います。みんな「失敗」を大切にした話です。 〜  アリスが感じる「混乱」や「でたらめ」や「無謀」は、どうやら女の子にとっては平気なんですね。それというのも、ゲームとか議論とか裁判というのは男がつくった制度であって、それが軋んだり変になっていくのは男子社会にとっては、何であれ気掛かりになるのですが、女子にはそんなふうになるのは当たり前なんでしょう。もともとあんたたち男が作ったのだから自業自得だわというのです。 〜

松岡正剛の千夜千冊・1591夜

松岡正剛の千夜千冊・1591夜 ジョン・キーツ『エンディミオン』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1591.html 〜  キーツの『エンディミオン』に懸ける意志はただならない。友人の手紙には「この創作力というものは、誰にもあるというわけにはいかない。これを頼りにして僕はわずかな内容の物語をもとに4000行を書き、それを詩で充実させなければならない」と書いている。たいへんな気合だ。  たいへんな気合だが、第1巻を書き始めてみると何かが容易ではない。キーツは気分を変えるために、サザンプトンからソレント海峡をわたってワイト島に行くことにした。海からの鋭気をもらい、宿屋ではシェイクスピア( 600夜 )に行きつ戻りつして詩稿を重ねた。けれどもなぜだか、なかなか詩の埒があかない。あきらかに「負」が足りなかったのだ。 〜  2009年、ジェーン・カンピオンが監督した『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩』という映画が封切られた。キーツとエンディミオンを重ねた映画だった。 〜 映画予告『ブライト・スター いちばん美しい恋の詩』 URL> https://www.youtube.com/embed/fAExjaMrC5Q

松岡正剛の千夜千冊・1576夜

松岡正剛の千夜千冊・1576夜 米田彰男『寅さんとイエス』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1576.html 〜  とくに「風天のイエス」という見方を何の躊躇もなく入れているのが、すがすがしい。『男はつらいよ』全48作をかなり詳細に比較して、そのストーリー性や場面性を論旨に沿ってそのつどシノプシスめいた抜き書きにしてもいるのだが、その採り上げる分量も角度もよかった。 〜  井上ひさし( 975夜 )が情熱をこめて監修した『寅さん大全』(筑摩書房)では、『男はつらいよ』には主として3つの物語母型が生きているという。  一つ目は「貴種流離譚」の物語様式、二つ目は「道中記」あるいは「道行」の物語様式、三つ目は「兄と妹」にまつわる物語様式だ。ほぼ当たっていよう。  ただし貴種流離譚は英雄の流離とはあべこべの様式になっていて、貧しく支えあっている者の象徴である寅さんが流離する。そして必ずや柴又帝釈天の「とらや」に帰還して、また流れていく。ジョセフ・キャンベル( 704夜 )が読み解いた英雄伝説では「セパレーション(出発・旅立ち)、イニシエーション(艱難辛苦との遭遇)、リターン(原郷への帰還)」の順に話が進むけれど、まさにその逆なのだ。逆の繰り返しなのだ。 〜  情欲にかこつけてマドンナの体に触れるなんてことはとうていできるはずもない寅ではあろうけれど、「非接触」とはそういうことではない。「縋(すが)らない」ということなのだ。マドンナに縋(すが)らず、かつまた、これ以上は俺に縋っていちゃあいけねえよということだ。 〜  そのなかで本書につながる見方として、イエスの生き方は自力でも他力でもなく「共力」(ぐりき)であったのではないかというくだりがある。「共力」とはなんともいい言葉だ。本書を読みながら、寅さんもまた共力だなと思われたのである。 〜 ============================= 映画シリーズ:男はつらいよ URL>  https://moviesindex1.blogspot.jp/search/label/男はつらいよ

松岡正剛の千夜千冊・1571夜

松岡正剛の千夜千冊・1571夜 紫式部『源氏物語・その3』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1571.html 〜  では、書き足りないのかといえば、そうではない。紫式部はそうしたくて、そうしたにちがいありません。そのため前夜にも説明したように、この物語には独特の「心内語」(しんないご)がかなり駆使されて、登場人物の気分と状況の推移との「双方のけじめをつけない表現」が連綿したわけです。 〜  これで日本の天皇家は、これまで一度も「別の家格」による転覆劇がおこらなかったということになります。易姓革命はおこらなかった。武家政権による幕府はできても、天皇を乗っとることはできなかったのです。 〜  そのときも紹介しておいたことですが、詳しくは先頃亡くなられた松本健一( 1092夜 )さんの遺著にあたる『「孟子」の革命思想と日本』(昌平黌出版会)を読まれるといいでしょう。 〜  「氏」には父系的な出自をもつ集団にルーツがあります。歴史学では氏族といいます。この氏族のリーダーは「氏の上」(うじのかみ)です。氏の上は氏人(うじびと)を統率し、部民(べのたみ)や奴婢(ぬひ)たちなどを隷属させて、その地の共有資産を管理します。そして氏神(うじがみ)を奉祀する。これが「氏」です。 〜  なぜこんなことをしたのかというと、当時の天皇家の経済力がショートしてきたからです。50人も産んでいればそうなるでしょう。皇族たちの経済をこのまま維持続行することが難しくなった。皇族コストがもたなくなった。そこで源氏という氏姓をつくって、それまでの皇族を臣籍に降下させたわけです。天皇家のリストラであって、かつ天下りのようなものです。 〜  もっとも「源氏」という賜姓(しせい)があったというだけでは、源氏も他の氏姓と同程度になってしまいます。かれらは源氏という氏姓をもらっても出自は准皇族なのですから、そこには何かもうひとつの冠(かんむり)がほしい。  そこで登場したのが「氏の長者」(うじのちょうじゃ)という冠です。源氏は他のあらゆる氏たちのなかのリーダーだというお墨付きをもらった。 〜  明治4年に「今後は位記・官記をはじめとする公文書に姓を除き苗字を用いるべし」という通達が出回り、明治8年には「苗字必称令」が公布された。これで、これまで...

松岡正剛の千夜千冊・1570夜

松岡正剛の千夜千冊・1570夜 紫式部『源氏物語・その2』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1570.html 〜  では、もうひとつ。巻14の「澪標」(みをつくし)の、都に戻った源氏が願解(がんほどき)のために住吉神社に詣でると、そこで明石の君も恒例の住吉詣でをしていて二人が鉢合わせをするという場面。  明石の君は気後れをしているんですね。そこで源氏が「みをつくし恋ふるしるしここまでもめぐり逢ひけるえには深しな」と詠むと、やっと明石の君はこれに応じる余裕がちょっと出てくる。それで「数ならでなには(難波)のこともかひなきになどみをつくし思ひそめしか」と答える。  源氏の一首は、身を尽くして恋い慕う甲斐があって、澪標のあるこの難波までやってきたら巡り会えましたね、あなたのと縁は深いんですよと詠んでいる。澪標と「身を尽くし」を掛けています。明石の君は「自分なんて人の数に入らないような身で、特別の甲斐なんて何もないのに、どうしてあなたのことを思うようになってしまったのでしょう」と返歌します。いろいろ掛詞(かけことば)や縁語が櫛されていてわかりにくいかもしれませんが、二人の心境や感情が十分に伝わってきます。  贈答歌というのはこういう感じなんです。独特のコミュニケーションですね。メールやツイッターでもこんなふうにするといいんじゃないかと思うほど、暗示的な言葉の技量のかぎりが尽くされて、相互編集状態をつくりあげています。『源氏』はこんなふうに歌による文脈的編集力を見ながら読めるようにもなっています。だから、やっぱり和歌は欠かせない。 〜 8.「花宴」はなのえん  (源氏20歳春、桐壺帝譲位・朱雀帝即位25歳。藤壺25歳)  宮中の南殿(なんでん=紫宸殿)で桜の宴が催され、源氏はまたまたその舞を絶賛される。その深夜、右大臣家の姫君である朧月夜(おぼろづきよ 実は六の君)と出会って濡れる。彼女は東宮(のちの朱雀帝)への入内が予定されていたが、源氏に心を奪われる。藤原俊成は全巻を通じて最も優麗な巻だと評した。 ◉光源氏「深き夜のあはれを知るも入(い)る月の おぼろけならぬ契りとぞ思ふ」 ◉朧月夜「うき身世にやがて消へなば尋ねても 草の原をば問はじとや思ふ」 〜 9.「葵」あふひ  (源氏22~23歳。六条御息所29...

松岡正剛の千夜千冊・1569夜

松岡正剛の千夜千冊・1569夜 紫式部『源氏物語・その1』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1569.html 〜  『源氏』は総じて、この「外れる」あるいは「逸れる」ということを宮廷内外の目をもって描いていく物語だと思います。紫式部の狙いも関心も、また藤原摂関政治に対する批判のあらわれ方も、その「外れる」「逸れる」の描写具合にありました。ぼくは、そう見ているのです。  グレン・グールド( 980夜 )がいみじくも喝破したように、比類のない芸術精度は「よく練られた逸脱」をもってしか表現できません。このグールドの芸術精度についての見方は、紫式部が桐壺の帝と光源氏の発端を「逸脱の様式」としてあらわした『源氏物語』にもあてはまります。 〜  つまり「いろごのみ」は、もともとはその人物の性的個人意識にもとづいたものではなかったのです。古代日本の神々に特有されているソフトパワーだったのです。それがしだいに宮廷社会のなかで宮人たちの個人意識に結び付いていった。それって藤原社会がそうさせていったからそうなったわけで、紫式部はそこを見抜いていたからこそ『源氏』のような物語が書けたのです。 〜  これは一個の文芸作品としてはとんでもないことで、シェイクスピア( 600夜 )だって近松( 974夜 )だって、幾つもの作品を並列させてやっと「なにもかも」に近づいたのに、式部はそれを長大な一作で11世紀にやってのけてしまったのです。 〜  なかでも六条御息所が一番だとおっしゃる。これはなかなかの卓見で、われわれ凡なる男からは、生霊(いきりょう)となって夕顔や葵の上をとり憑き死に到らしめた御息所を、『源氏』一番の女性とは言い難い。たいていは「業の深い女」だと見てしまう。けれども瀬戸内さんは、あの「とめどもない愛」と「あふれてやまない情熱」こそ、紫式部がつくりあげた「胸が熱くなるほどいとおしい女性」なのだと言うんですね。感心しました。 〜  これらは「美術としての源氏」というより、源氏というのはこういうものだということを、絵そのものとして把握できるようになっています。「吹き抜け屋台」という図法で描いているとか、顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)になっているとかだけではない。絵を見ていると、文章ではやってこないいろいろな情報がアルス・...

松岡正剛の千夜千冊・1417夜

松岡正剛の千夜千冊・1417夜 森崎和江 『北上幻想 — いのちの母国をさがす旅 —』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1417.html 〜 母国とは何か。 それは探し続けるものである。 九州宗像に住む森崎和江は、 その母国を北上の果てに探した。 〜  20年ほど前のことになるが、ぼくは高橋秀元や田中優子( 721夜 )や高山宏( 442夜 )らと物語の「型」を研究していた。そのなかで、世界中の物語にはそんなに多くはない数の「母型」があることに気づき、これを「ナラティブ・マザー」とか「物語のマザータイプ」と名付けた。 〜  一方、ユング( 830夜 )がその心理学のなかで、民族や宗教にひそむ「アーキタイプ」(元型)と呼んだものがあるのだが、それについては典型(ステレオタイプ)や類型(プロトタイプ)に対する原型(アーキタイプ)のほうに分類し、それらいずれにも共通していながら、もうちょっと漠然とした時空間に漂っていたり、どこかに埋め込まれているイメージの母体のようなものをあえて母型と呼び、これを「マザータイプ」とか、たんに「マザー」と捉えるようになっていた。 〜  他方、ぼくはグレートマザー(太母神)の伝説が好きで、これは最初は『ルナティックス』(ちくま学芸文庫)を連載しているときにのめりこみ、小アジアのディアーナ(ダイアナ)伝説を月女神や月知学に敷延していたのだが、その後にバッハオーフェン( 1026夜 )の大著『母権論』を読んでからは、世界中のマトリズム(母的思考)に対するパトリズム(父権的思考)の圧迫を知るようになった。  そうしたなか、「母国語」や「母国」や「母なる大地」や「母音」「母体」「分母」という言葉に、しだいに深遠な愛着をもつようになっていったのだ。ぼくはいつかこの言葉を強く発しなければならないと感じてきた。 〜 1958年に森崎が筑豊の炭坑町に移住をしていたとき、谷川は上野英信や森崎や石牟礼道子( 985夜 )らと文芸誌「サークル村」を創刊しつつ、大正炭坑に行動隊を結成し、ラディカルきわまりない戦闘を辞さなかったのである。 〜  谷川自身は熊本県水俣の生まれで、熊本中学・五高をへて東大の社会学科に入り、戦後は西日本新聞社にはいるのだが...

松岡正剛の千夜千冊・971夜

松岡正剛の千夜千冊・971夜 手塚治虫 『火の鳥』全13巻 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0971.html 〜  手塚治虫はゲーテ ( 970夜 ) であってドストエフスキー ( 950夜 ) であって、アレクサンドル・デュマである。これは疑いようがない。  ついでにヴィクトル・ユゴー ( 962夜 ) やエミール・ゾラ ( 707夜 ) を加えてもいいけれど、ようするに、かつてはそういう作家を「文豪」と呼んでいたのだから、さしあたってはそう呼ぶしかないのだが、文豪なのだ。 〜  ただし、この文豪は文章による文豪ではなくて、マンガ文豪なのだから、それゆえたとえば「画豪」とか「漫画王」とか、あるいは「漫画のレオナルド・ダ・ヴィンチ ( 25夜 ) 」とか「漫画聖人」としなければならないのだが、これにあたる呼称は世間がさっぱり用意しきれていない。この用意は当然に日本がなすべきである。 〜  『火の鳥』の連載は手塚自身が発行元となった「COM」で連載が開始された。昭和42年(1967)である。  ぼくも雑誌を創刊したからわかるのだが、表現者がメディアをおこすときの入れ込みようといったら、これは傍目では想像がつかないくらいに大変なもので、売れてもらわなくては困るけれど、それよりも自分が自分を託したメディアに自分の魂が入っていなかったらどうしょうかと、そういうことばかりを考える。 〜  かくして手塚が『火の鳥』に構想したのは、「生命」の息吹を伝える輪廻転生というものだった。  これは滝沢馬琴が『南総里見八犬伝』で企んだこと、また、中里介山 ( 688夜 ) が『大菩薩峠』で思い描いたこと、あるいはサタジット・レイが映画『大地の歌』『大河の歌』『大樹の歌』のインド3部作でめざし、三島由紀夫が遺作『豊饒の海』で書こうとしたことがそうであったように、表現者が何かを覚悟してすべてを出し尽くしたいときに、とくにそれが東洋者や日本人である場合に、とっておきのものとなる。 〜  劈頭、オムニシエントな「引きの目」がふつうのマンガの5倍くらい多めに始まって、一気に「寄りの目」になり、これが次々に組み替えられてかなり続くと、いったん「引きの目」が入り、これで大きな「価値相対化...

松岡正剛の千夜千冊・755夜

松岡正剛の千夜千冊・755夜 中上健次 『枯木灘』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0755.html 〜  白州の夜話はぎくしゃくとしか進まない。そのときの車座には他の話し手(高山登とか)もいて、話題は右往左往した。それでもある時間になって二人の会話になった。きっかけは「松岡さん、あんたは小説を書かないのか」というのである。  書かないとも、書けないとも、いずれ書くかなと言うのもぴったりこないので、「メタな物語 ( 241夜 ) を先に書いちゃいそうだから、小説にはならないかな」と言うと、さあ、待ってましたとばかりに、「どういうことだよ?」と突っこんできた ( 408夜 ) (どうでもいいことだが、中上とぼくは2歳ちがい)。 〜  もともとぼくは「物語の物語」 ( 577夜 ) というものに関心をもってきた。「場所」にも執着に似た関心をもってきた。だいたいぼくが最初に書いた連載が「遊」の『場所と屍体』なのである。 ( 10夜 )  〜  したがって、仮にもぼくがいつか小説を書くとしたらどんなものになるのかは、いまもって見当がつかないままなのだ。  しかしそれだけに、そのぶん、マルケスやクンデラや中上の「物語の物語」の実現にはただひたすら脱帽してしまうのだ。 〜  さあ、そこで、たとえば中上の『枯木灘』なのである。  この物語は表向きは異様なサスペンスに富んだ作品になっているかに読める。それも路地の一隅に蟠(わだかま)る複雑な血のサスペンス ( 657夜 ) であるのだが、ところがそれが作品の内側のほうにとことん抉(えぐ)られていて、一様ではない。  … 〜 --------------------------- 映像・原作「中上健次」URL> https://moviesindex1.blogspot.jp/search/label/中上健次

松岡正剛の千夜千冊・577夜

松岡正剛の千夜千冊・577夜 ジェラルド・プリンス 『物語論辞典』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0577.html 〜  物語の本質は広い意味での「紛糾」(complication)である。その解きほぐしと解決(resolution)である。そのため大半の物語構造は多くの階層や部分や要素でできあがっているのだが、それだけでは物語は機能しない。  そこで、そうした物語素(classeme)を相互につなげるための連結(linking)、連接(conjoining)、埋め込み(embedding)、交替(alternation)、協和(consonance)、混合(interweaving)、合成(compound)、入れ子(nesting)などの“関係付け”が必要になる。また、それぞれのプロットの並べ方を縫い合わせる手法が要求される。たとえば省略法(ellopsis)、不等時法(anisochrony)、錯時法(anachrony)、後成法(analepsis)、あるいはフラッシュバックやフラッシュフォワード、また会話、モノローグ、間接話法、自由間接話法、無媒介話法などの話法による“関係付け”である。 〜

松岡正剛の千夜千冊・447夜

松岡正剛の千夜千冊・447夜 上田秋成 『雨月物語』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0447.html 〜  ここにおいて江戸文芸は徂徠よりも、上方ふうの狂文狂詩をたくみに獲得するほうに流れていった。そして、銅脈先生こと畠中観斎や寝惚先生こと太田南畝を、さらにはご存知風来山人こと平賀源内などを生むことになった。これが"うがち"の登場である。"うがち"はやがて「通」になっていく。 〜  待ちつづける女、宮木のひたむきなイメージは、溝口健二が映画『雨月物語』のなかで田中絹代に演じさせて有名になった ( 84夜 ) 。溝口が宮木をキャラクタライズするにあたっては、原作にはない大いなる母性をもちこんだ ( 1026夜 ) 。そもそも溝口の『雨月』は原作をかなり離れたもので、モーパッサン ( 558夜 ) さえ加わっている。 〜  読者の肌身が凍りつくとき、ここで一転、物語は「蛇性の婬」でさらに深まっていく。 〜  初めは那智詣での帰途に美しい男女の一対がファンタジックな出会いをおこし、夢とも現(うつつ)ともつかぬうち、ただ一振の太刀だけが残って、昨夜の宴の家が一瞬にして廃屋になる。この廃屋のイメージは、その後の日本文芸や日本映画の原イメージとなったものである。 〜  廃屋出現の謎は、いったん怪しい者の仕業とわかるのだが、ところが話はそこからで、翌年になってまた男は怪しい女に出会う。しかも女はあの仕業はやむなき仕業で理由があったというために、ついに結婚まで進む。女はしだいに禍々しい正体を指摘され、それなら男も改心するかというと、逆に哀れな女の性に吸引されていくという、徹底して不幸に魅入られた関係が三段階にわたって奈落に堕ちゆく構造なのである。 〜 --------------------------- 映像・キーワード「物語」URL> https://moviesindex1.blogspot.jp/search/label/物語 フレーズ・キーワード「物語」URL> https://200im.blogspot.jp/search/label/物語 雑誌・キーワ...

松岡正剛の千夜千冊・438夜

松岡正剛の千夜千冊・438夜 楊定見・施耐庵・羅貫中 『水滸伝』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0438.html 〜  このような途方もない物語で、しかも作者もはっきりしない怪物のような変化に富んだ物語を採りあげるのは、ほんとうは願い下げにしたいのだ。  ところが、青少年期に読んでぼくの義侠心をわくわくさせた物語が、ほかにアルセーヌ・ルパン、三国志、巌窟王、ハックルベリ・フィン、アラビアのロレンス、三銃士とかとかだったというふうに思い出してみると、やはり『水滸伝』のもつ魅力は、今日のぼくのありかたから察してみて、どうも一番に縁が深そうなのだ。  そういう物語を千冊の外においておくわけにはいかない。多少ともは、『水滸伝』との少年期以来の結びの縁に幣を付けておかなければならないはずなのだ。 〜  その大頭目36人、小頭目72人の好漢たちの要に立つ宋江が、実はろくな武勇もなく、一頭の鶏を縛る力さえもちあわせていない軟弱者だというのも、実はぼくが気にいっているところだ。これは何をしても部下のほうがそれぞれ勝る技能をもっているということで、では宋江にどんな長所があるかといえば、ただどんな相手も、どんな事態をも恐れないというだけなのだ。  そのかわり、頭目たちの才能を愛しているし、その組み合わせについてはいつも腐心する。また、もともとが書記を仕事としていたので並々ならぬ言語力と編集力がある。宋江なき梁山泊はありえない。 〜  そして第4が「はぐれもの」たちである。魯智深・張横・延綽・武松・公孫勝らで、その存在の特徴は、破格・桁外れ・はみ出し・一念居士・一人よがりといったところ。が、この一匹狼を任ずる連中が梁山泊にかかわるとものすごいはたらきをする。  こうした「やむなき逃亡者」と「不平をかこつ者」と「はぐれた一匹狼」の組み合わせは、『水滸伝』をたんなる無頼の徒の物語にしなかった。 〜

松岡正剛の千夜千冊・84夜

松岡正剛の千夜千冊・84夜  新藤兼人 『ある映画監督の生涯』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0084.html 〜  これは溝口健二をめぐる39人の作家や脚本家や役者たちのインタヴューを収めた記録である。インタヴュアーは新藤兼人。新藤はインタヴュー中にカメラをまわし、同名の映画をつくった。 〜  その小学校の同級生には川口松太郎がいた。川口は生涯にわたる刎頚の友として、『西鶴一代女』 ( 618夜 ) や『雨月物語』 ( 447夜 ) をはじめとした作品を支えた。 〜  川口松太郎は「あれは本当の意味のリベラリストではなかったね」「階級意識が強かったよ」 ( 1029夜 ) 「官尊民卑の思想ってものが、どっかにあったんじゃないかって気がするね」などと言っている。  なぜそのように見えたかというと、文部大臣賞やベニス映画祭銀賞や紫綬褒章をもらうことを非常によろこんでいたというのだ。依田義賢も、ベニス映画祭ときに溝口が日蓮上人の画像の軸 ( 250夜 ) をもちあるいていて、いよいよ審査発表が迫ると、ベニスのホテルにこれをかけて拝んでいたというエピソードをバラしている。  〜 香川京子は「溝口先生という方は何もおっしゃらないでしょ。はい、じゃ動いてみてくださいとおっしゃられるわけですよ」「でも、あんなに夢中でやったのは、後にも先にもありませんね」と言い、森赫子は「先生が、セリフなどはどうでもかまわないって、心、役の心持ちさえちゃんとしていれば、いい」と言ったと回想する。 〜 まだ新人だった若尾文子にはこう言ったらしい、「ようするに、君、人間になればいいんだよ」。 〜  溝口はもともと泉鏡花 ( 917夜 ) に傾倒していたような幻想感覚の持ち主だった。  これも有名な話だが、溝口はルーブルの「モナリザ」 ( 25夜 ) の前で泣き出している。そこにいた依田義賢も田中絹代も驚いた。ゴッホの前では、「君たち、もう一度勉強しなおしなさい」と言った。そして、狂気が必要だ ( 1099夜 ) とポツリと言った。 〜 溝口健二はつねに「絵巻」をつくりたかった人なのである。実像でも虚像でもなく、「絵巻」の中にいたかった。 〜 ...