松岡正剛の千夜千冊・1671夜
清水良典
『あらゆる小説は模倣である。』
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しかし寺山も澁澤も、自分が盗作をしたとはこれっぽっちも思っていない。丁寧に拝借したというくらいのつもりだろう。その「つもり」を彫琢して新たな「ほんと」にしたと思っているはずだ。かねてジャン・コクトー(912夜)が何度も宣言していたけれど、むしろ「オリジナリティを誇ることこそ、あやしい」のである。
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ガブリエル・タルド(1318夜)が『模倣の法則』(河出書房新社)に詳しく説諭したように、模倣は最も生産力に富んだ「社会の基礎力」であって「文化のエンジン」である。模写・模倣・模伝や参照・引用・敷延こそが社会文化を支えてきた。模倣すなわちミメーシスは、文化の文法だった。
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物語学のジェラール・ジュネット(1302夜)が、一次テキストから派生した二次テキストを大量に集めて分類分析して『パランプセスト』(水声社)という大冊をまとめたことがある。
パランプセスト(palimpseste)というのは聞きなれない言葉かもしれないが、再利用羊皮紙のことをいう。ヨーロッパに用紙が普及しなかった時代では羊皮紙はかなりの貴重品だったので、すでに書かれた古いテキストを薄くなるまで擦り落として新たなテキストを上書きすることが多かったのだが、まさにそのように歴史上の多くのテキストには、背後からエックス線のように過去テキストが透けて見えてくるとジュネットはみなして、そのことを「パランプセスト」呼ばわりわしたのだった。
多くのテキストはそもそもからしてリサイクル・テキストであり、リメーキング・テキストなのである。
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少なく見ても、物語には「物語内容(histoire)=語られている話の内容」「物語言説(recit)=テスキト」「語り(narration)=語り手による物語行為」という3つの相が複合的に含まれていて、そのためそれぞれのちょっとしたちがいによって千変の変化と万化の変容をもたらしてきた。どんな物語もこの3つの相に少しずつ新たな手を加えさえすれば、いくらでも改作できたし、変換できた。
物語は物語に出入りする時間、話の順序、登場人物、場所(トポス)によっても変幻自在になった。時間を動かせば錯時法(anachronie)が翩翻と躍り、それも先説型(prolepse)になったり後説型(analepse)になったり、まぜこぜになったりできた。ほぼ似たようなストーリーでも登場人物が変わり、舞台が変われば、いくらでも新たな物語になりうるのである。
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レヴィ=ストロースはこの変換作業のことを「プリコラージュ」(bricolage)と呼んだ。「繕う」「修繕」「寄せ集めて作りなおす」「器用な手作業」という意味だが、これはまさに「編集」のことである。レヴィ=ストロースは設計図や理論にもとづくエンジニアリングに対して、その場で手に入るもので作ることをブリコラージュと呼んだのだが、ぼくは神話時代以降の物語、たとえば器楽や映画やVRのように機械システムが介在しても同じことがおこると見て、あえて編集工学(エディトリアル・エンジニアリング)という用語を使うようにした。
模倣を媒介に物語やコンテンツは、必ずやエディトリアル(編集物)としてエンジニアリングの対象になってきたという見方をとったのだ。
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