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松岡正剛の千夜千冊・1852夜・絶筆編

松岡正剛の千夜千冊・1852夜・絶筆編 2025/06/02 中島秀之『知能の物語』 URL>  https://1000ya.isis.ne.jp/1852.html 〜  「物語」と銘打ったのは、これが教科書ではないこと、人工知能の歴史の物語に因んでいること、言語はパターンよりも物語力をもっているのでそういう言語の力に寄り添って知能の物語に接近したかったこと、この3つの理由によっているのだと言う。  ぼくはこういう人の告白的文章が大好きで、以前ならインド哲学の松山俊太郎さんや中国文学の草森紳一( 1486夜 )さんが、そうだった。… 。けれどもそのぶん本人の洞察は冴えてくる。  正直いって、こういう文章は読みやすくはない。しかし、一見抜け目のないように設えられた学術論文なんて、レフェリングの網をくぐるために書くようで、そんなものをリアルタイムに読まされるのはつまらない。いずれ大きくまとまるか、それなりに陶冶されたところで読めばいい。それよりも、語るように、綴るように、思索が一所不在を彷徨しているようなものこそ、実はプラトン( 799夜 )やモンテーニュ( 886夜 )や荻生徂徠( 1706夜 )やシオラン( 1480夜 )やレヴィナスがそうだったように、歴史的脈動を伝えてくれるものなのだ。 … 〜

松岡正剛の千夜千冊・1788夜

松岡正剛の千夜千冊・1788夜 エドウィン・C・クラップ 『天と王とシャーマン 天に思いを馳せる支配者たち』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1788.html 〜  最近、アメリカで「nones」(ノンズ)という言葉が動き出している。ミレニアルズ層を中心にバズっているようだが、その多くが無神論者や不可知論者たちで、その数は全米のカトリック人口に迫っているらしい。2021年には宗教社会学者ライアン・バージの“The Nones”という本が話題になった。 〜  「今こそ訊こうじゃないか。シャーマンに精霊を呼んでもらって道を尋ねようじゃないか。モンゴルの大地が大丈夫かどうか、借金や抑圧がなくなるかどうか、訊ねようじゃないか。泥棒は誰なのか、尋ねようじゃないか」。  モンゴルのヒップホッブグループ「Ice Top」(アイス・トップ)の《Am Asuuya》(2011)のリリック&ヴァースの一部だ。目の前のシャーマンに迫るような荒々しいヒップホッブで、こんな歌詞をシャウトするのは日本のラッパーにはいない。 〜  そんなこんなで(何が「そんなこんな」かはまことに無責任で漠然としているが)、ぼくは若いころからシャーマン(shaman)やシャーマニズム(shamanism)にひとかどの関心をもってきた。  街のシャーマンを観察しようというのではない。むしろ原始古代のシャーマニズム、あるいは地域的なシャーマニズムを知りたくなった。たとえば沖縄のユタとノロ、盲目の瞽女(ごぜ)、ヤマトトモモソヒメ、各地のメディシンマンが気になった。  そこでミルチア・エリアーデ( 1002夜 )の大著『シャーマニズム』(冬樹社→ちくま学芸文庫)をはじめ、ウノ・ハルヴァの『シャマニズム』(三省堂)、ヨアン・ルイスの『エクスタシーの人類学』(法政大学出版局)、カーメン・ブラッカーの『あずさ弓』(岩波現代選書)などを読み、佐々木宏幹の『シャーマニズムの世界』(弘文堂→講談社学術文庫)で、シャーマンにも脱魂型、予言者型、霊媒型、精霊制御型、見者型などがあることを知った、  ただ、これらの多くはたいてい「憑依」(独Besessenheit 英possession)やエクスタシー(ecstasy 恍惚)やヒプノティズム(hypbotism 催眠現象)を前提にしているシャーマニズ...

松岡正剛の千夜千冊・1770夜

松岡正剛の千夜千冊・1770夜 ミシェル・セール 『小枝とフォーマット - 更新と再生の思想 - 』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1770.html 〜  セールが見るに、ギリシア・アルファベットが一番のデーウゥティーオだった。表記法は言語部族や言語才能によってもたらされるけれど、それがフォーマットになるには何か「とてつもない機能性」が作動して、かつ「献身」しなければならない。セールにはそう思えた(そう、思いたかった)。ギリシア・アルファベットにはそれがあった。だからホメロス( 999夜 )はそこに共感し、アルファベットというフォーマットから叙事詩という物語の小枝を繁茂させ、六脚韻を献身させた。  だったら、ピタゴラスの定理やエラトステネスの測地法やプラトン( 799夜 )の理想政治思想も、そういうものだったろう。同じことがダンテ( 913夜 )の地獄篇に、ラ・フォンテーヌの寓話に、サディ・カルノーの熱力学に、ベルクソン( 1212夜 )の意識の流れに、ホワイトヘッド( 995夜 )のネクサスにおこったろう。そんなふうにセールは見通した。  日本人のぼくはここで、ところで、日本ではと思う。本居宣長( 992夜 )が遭遇したのは逆のことだった。漢文のみで書かれた『日本書紀』はむろんのこと、『古事記』にも日本語によるフォーマットがなかったのである(あるいは「からごごろ」=「漢意」によって半ば隠れていた)。 〜  (03)フォーマットとはやや異なるが、セールには『アトラス』(1994)という一冊もあって、われわれは「地図帳」(アトラス)で何を示してきたのか、何をしようとしてきたのかを問うていた。  アトラスはいろいろなところにいろいろなしくみをもって出現した。アリストテレス( 291夜 )からデカルトまでを夢中にさせた気象図、モーペルチュイを動かした気圧図、オーギュスト・コントが熱中した潮汐図、リューベックやヴェネチアなどの中世の都市図、電気の登場とともに広がった配電図、神殿や寺院や住宅の設計図、いずれもアトラスだ。  心電図はその男の心臓活動のアトラスで、CTスキャンされた体内画像はその男の疾患アトラスで、どこかの家の間取りはその男の家族や日々の属性を投影する住処(すみか)のアトラスなのである。 〜  11から12に移るところで「...

松岡正剛の千夜千冊・1769夜

松岡正剛の千夜千冊・1769夜 デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ 『洞窟のなかの心』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1769.html 〜 … ぼくはこの一枚を見ていると、先史人類がのこした痕跡から人類史のミッシング・リンクを読み出そうとしている洞窟派たちの「信念の連鎖」が切々と伝わってきて、胸にこみあげてくるものがあるのだ。  LSA(後期旧石器時代)の人類には芸術的な創造心などなかったろうという通念をみずから反省したのは、アルタミラの洞窟画を調べたエミール・カルタイヤックの『懐疑論者の懴悔』(1902)だった。学者が反省を公表するのは勇気のいることだろうが、こういう懴悔をやってのけたのは先史文化研究にとって大きい。 〜  チャールズ・タートが名付けたアルタード・ステート(altered state of consciousness:ASC)については、まだ十分な議論が出尽くしていないのだが、トランス状態に入らないまま、あるいは薬物の活用に依存しないままに、日常意識から連続的に変性意識に移っていくことがありうるとされている意識状態のことだ。  ジョン・C・リリー( 207夜 『意識の中心』)がアイソレーション・タンクの実験などを通してその可能性を提言した。ユング( 830夜 )が提唱した「トランスパーソナル」の概念をマズローらとともに発展させたスタニスラフ・グロフもこのことに取り組んだ。グロフはLSDを使用した脳科学の臨床を通して、アルタード・ステートの変化を記録しようとした。 〜  そうだとしたら、LSA人類がこのあとクロマニヨン人をへてホモ・サピエンスに向かっていったとき、アルタード・ステートの体験とその表象化こそが、サピエンスの脳に超越意識と尋常状態意識とのあいだの、つまりは「神と人とのあいだ」の、わかりやすくいえば「世界と人間とのあいだ」の、たいへん根本的な認知モデルを提供していただろうということにもなるのだが、そこはまだ説明できていない。  しかし著者はこの一連のことが実際におこっていたことであったとしたら、そこには人類における「自閉的な意識」の誕生も促されていたはずで、このことがのちのホモ・サピエンスにおける自意識の閉塞感をもたらしたのではないかとも付言した。ぼくはこの見方は当たっているだろうと思えた。 〜  かく...

松岡正剛の千夜千冊・1767夜

松岡正剛の千夜千冊・1767夜 田中雅一編 『フェティシズム論の系譜と展望  越境するモノ/侵犯する身体』 京都大学学術出版会 2009・2014・2017 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1767.html 〜  イギー・ポップのパンクステージ、横尾忠則のポスター、エットレ・ソットサス( 1014夜 )のメンフィス・デザイン、ジャン・ジュネ全集( 346夜 )、四谷シモンの人形、ヴィダル・サスーンの鋏と指、忌野清志郎の「シングルマン」、ボードリヤールのシミュラークル議論、ヴィヴィアン・ウェストウッドの無政府コスチューム、荒木経惟( 1105夜 )が撮った部屋の中の女たち、いずれにもフェチが躍っていた。ぼくはこれらを遠近(おちこち)の浪枕に「遊」を編集していた。  フェティシュというよりフェチ。そう言うとなんだか「きわもの」(際物)を取り出されたように感じるだろうが、人の心身を奪ってやまないのはフェティシュもフェチも同じこと、あえて多少自嘲気味に「フェチ」と発音したり綴ったりするほうが、きわどいものが本来の消息をこっそり告げているようで、その「後ろめたさ」がおもしろい。 〜  人それぞれ、いろいろのフェチ。寺山修司( 1197夜 )は「ぼくは日本語フェチなんだよ」と言っていたし、数年前のことだが、杉本博司( 1704夜 )は「60歳をすぎてからラブドール・フェチになったんだよ」と笑っていた。ラブドールとはよくできたダッチワイフのことだ。 〜  こんなふうに日本ではフェティシズム研究の偏向と体たらくとフロイト一辺倒が長らく続いていたのだが、最近になってついにこの貧しさをアカデミックに突破する試みが出てきた。今夜はそこを紹介する。  京大で南アジア人類学とジェンダー学を教えている田中雅一(まさかず)が、2009年から十年近くにわたって準備執筆編集した「フェティシズム研究」というシリーズがある。多くの研究者や執筆者が参加して、『フェティシズム論の系譜と展望』『越境するモノ』『侵犯する身体』という3冊シリーズになった。京大人文研での64回の研究会、68人の報告にもとづいているらしい。  全部が全部おもしろいというわけでないし、ぜひとも紹介したいというものばかりでもなく、また学術のロジックに捕らわれているものも少なくないのだが、いま...

松岡正剛の千夜千冊・1766夜

 松岡正剛の千夜千冊・1766夜 ブリュノ・ラトゥール 『近代の〈物神事実〉崇拝について』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1766.html 〜  本書の原題はフランス語の『フェティシュ(物神)』であるが、邦訳タイトルはすこし長めになって「物神事実」という聞きなれない言葉をつかっている。  これはフランス語で「ファクティシュ」(factish)という造語の日本語訳で、ファクト(fact)とフェティシュ(fetish)が掛け算されて、くっつきあっている。ラトゥールが造語した。或る地域や或るアート行為などで、或る「物的な事実」がフェティシュの対象になるとき、そこにはファクティシュ(物神事実)とでもいうべき〈新たなもの〉や〈変な感じ〉が誕生もしくは派生しているのではないかというのだ。  ファクティシュという坐りの悪い用語で説明するかどうかはべつとして、フェティシュ(フェチ)が生まれる物神化の行為のプロセスに、新たな事実発現性のようなこと、あるいはそれに似たことがおこっているだろうことは予測がつく。18世紀にド・ブロス( 1765夜 )が発見したフェティシュ(物神)は何かの「もの」にこだわることであるが、そのこだわりが「もの」についての認識や評判を変えるのだ。あるいは「もの」を見る目を変えるのだ。「もの」が「こと」(事実)になり、その「こと」が「もの」を変えるのだ。  おばあさんが帰りにくれたリンゴ、セザンヌが描いたリンゴ、神棚に供えられたリンゴ、アップル社が齧ったリンゴのマークは、そのへんの「リンゴ一般」ではないし、日記に綴った海水浴の浜辺、誰かが目撃した交通事故、チャーチルが発動した報復攻撃指示書、文春砲が書いた不倫は、普通名詞としての「事実」ではなく「物神化された事実」として区別されていく。 〜  おそらく「準主体」(quasi-subject)ともいうべきものが立ち上がり、おそらくは準客体と激しい作用をおこした。  この見方はミシェル・セールの「準主体/準客体」の影響を強くうけた見方で、主体と客体を分けない見方だった。主体と客体それぞれが互いにハイブリッドになっているという見方だ。この見方を説明するために師のセールから借りた「準」(なぞらえ)に着目したところがユニークだった。  何を準えたのか。あるいは何が準えられたのか...

松岡正剛の千夜千冊・1763夜

 松岡正剛の千夜千冊・1763夜 ギー・ドゥボール 『スペクタクルの社会』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1763.html 〜  かつてスペクタクル(spectacle)は大掛かりな見世物や光景のことをさしていた。古代の祝祭はほとんどがスペクタクルだ。とくに王権は権威の示威として祝祭をスペクタクル(めざましいもの)にした。フレイザー( 1199夜 )の『金枝篇』やエリアーデ( 1002夜 )の『聖なる空間と時間』などにあきらかだ。祝祭だけではない。古代中世を通じて巨きな建造物の出現や激突する戦乱、目を奪う気象変化や疫病の流行もスペクタクルだった。 〜  ぼくの見方では、ウィリアム・ターナー( 1221夜 )がこうした本来の意味でのスペクタクルを描こうとした最初の近代画家だったと思われる。ターナーにとっては港の気象も不思議な色彩に染まった夜明けも、雪山事故も遭難の光景も、驀進する蒸気機関車もスペクタクルだった。このこと、NHKの日曜美術館のターナー特集で話したことがあるが、その箇所は削られていた。テレビはそういうことを、のべつやっている。 〜  つまりは20世紀の最大のスペクタクルは「資本のスペクタクル」なのである。資本主義こそはこのスペクタクルの化け物のような巨大エンジンだった。しかし、一部の者にはもうひとつのスペクタクルがのこっていた。それは「革命のスペクタクル」である。資本主義そのものがスペクタクルであるとともに、それを覆すためのすべての試みもスペクタクルたりえたはずだった。  60年代半ば、パリのギー・ドゥボールがそのことをみごとに衝いた。次のように。  (4)スペクタクルはさまざまなイメージの総体では     なく、イメージによって媒介された諸個人の社     会的関係である。   …… (219)スペクタクルとは、世界の存在-不在にとり     つかれた自我が解体することによって生じる自     我と世界との境界の喪失である。それはまた、     生きられた真理をすべて、外観の組織化によっ     て保証された虚偽性の現実存在の下に抑圧する     ことによって、真―偽の境界をも消し去ってし     まう。 〜 [注20]最初に書いておいたように、スペクタクルは示威でもあった。示威行為はデモンストレーションで...

松岡正剛の千夜千冊・1762夜

 松岡正剛の千夜千冊・1762夜 篠田正浩 『河原者ノススメ — 死穢と修羅の記憶  — 』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1762.html 〜  篠田監督とは一度しか出会っていないが、某文芸賞受賞パーティの会場で会ったとたん、開口一番「僕ね、松岡さんの千夜千冊を読むの、楽しみなんだよ」だった。こちらも監督の作品はもちろん見てきた。学生時代の《乾いた花》《心中天網島》は先鋭的で清新だったし、最後に《スパイ・ゾルゲ》で尾崎秀実を撮って引退したことには覚悟を感じた。 〜  監督は昭和6年の満州事変のときに岐阜で生まれて、14歳で敗戦を体験した。十代半ばでの敗戦・占領、東京裁判は心にきつい。ゾルゲや尾崎を監督最後の作品にしたくなる経歴だ。谷川俊太郎、野村万作、磯崎新( 898夜 )、山口昌男( 907夜 )、高橋和巳、有吉佐和子( 301夜 )、勝新太郎らと同い歳だ。野坂昭如( 877夜 )は一ツ歳上の昭和5年だが、戦前は本と敗戦日本の極端すぎる変貌ぶりが、『この国のなくしもの』を書かせた。 〜  若い吉右衛門と岩下志摩を粟津潔のグラフィズムで新たな近松に仕立てた《心中天網島》には、誰もがあっと声を上げた。その後の、坂口安吾( 873夜 )の佳作をアレンジした若山富三郎主演の《桜の森の満開の下》、放浪芸の悲哀を原田芳雄・岩下志麻・武満徹( 1033夜 )で雪中に染ませた《はなれ瞽女おりん》、皆川博子の原作をフランキー堺が蔦屋重三郎を、大道芸人十郎兵衛(実は写楽)を真田広之が演じた《写楽》、玉三郎に竜神・白雪姫を演らせて鏡花( 917夜 )に挑んだ《夜叉ケ池》など、いずれも「日本の心情」に訴える意欲作だった。 〜  もうひとつあった。篠田さんが司馬遼太郎原作の《梟の城》を撮っていたとき、伊賀の忍者どうしが四条河原で芝居小屋や見世物小屋の人ごみに紛れて暗闘する場面があるのだが、そこに壬生狂言の音曲を使ってみようとして交渉したところ、保存会から「われわれが伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とはちがいます」と断られたのだ。  これらのことは篠田にひそむ河原者の気概に火を付けた。あるとき善光寺で「おびんるず様」を見たとき、ハッとした。 〜  だから本書は篠田正浩の「風姿花伝」であって「翁の座」であって、折口( ...

松岡正剛の千夜千冊・1761夜

松岡正剛の千夜千冊・1761夜 ダン・スペルベル 『表象は感染する 文化への自然主義的アプローチ』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1761.html 〜  いま多くの統治者と都会住民たちが、地球上をかなりの速度で席巻して人から人へと感染力を及ぼしているウイルスに、あたふたしたままにいる。緊急事態宣言を出したものかどうか、ぐすぐず数カ月を逡巡している国もある。 〜  地球上で感染していくものは病原菌やウイルスとはかぎらない。人類は長らく社会文化的感染症にかかりっぱなしだった。  このことを最初に明示してみせたのは、1920〜30年代のアーサー・ラブジョイ( 637夜 )である。ラブジョイはジョンズ・ホプキンス大学で知的探検団「観念の歴史クラブ」をつくって、観念(idea)こそが歴史に決定的な感染連鎖をもたらしてきたことを強調し、人々が「漠然たること」には影響力がないと思っていたことを打ち砕いてみせた。 〜  われわれの脳には、われわれの意思や行動を選択したり決定づけるための膨大な量の観念が出入りし、宿されている。何かを行動したり考えたりするたびに、脳から選び出された観念はさまざまな形を装って外に出てくる。  その形は文字であることも音楽であることも、大工仕事であることもファッションであることもある。いずれも表象になる。その表象に接すると、それに類似するものが他人の脳に移る。移るは、写るといっても映るといってもいいし、「伝染(うつ)る」と綴ってもいい。類が友を呼び、ルイジ君とソージ君が活躍して、観念は表象を伴って伝染し、増殖していく。こうして文化そのものが地球上に感染していくのである。  そのようなことを考えていくことを、ダン・スペルベルは「表象の疫学」(epidemiology of representation)と名付けた。きわどい命名だが、たいへん意味深長な命名だ。 〜  ここで表象は、①ある対象や現象が、②何かについての、③ある情報処理装置にとっての表象になる、というふうにかたちづくられる。この情報処理は個人内過程(intra-individual processes)と個人間過程(inter-individual processes)をもつ。表象の変異はこのプロセスのどこかで、おそらくは情報がかたちの制約をうけるインターフ...

松岡正剛の千夜千冊・1757夜

 松岡正剛の千夜千冊・1757夜 リチャード・ゴンブリッチ 『ブッダが考えたこと —プロセスとしての自己と世界—』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1757.html 〜  20世紀半ばにいたるまで、ヨーロッパにおいて「ブッダの教え」がどのように受けとめられてきたかという歴史は、一言でいえば惨憺たるものだ。多少は仏教に興味をもった知識人たちの理解もかなり心もとないもので、おおむねは「仏教は無神論だ」「仏教は哲学であって宗教ではない」「仏教は汎仏論、ないしは汎心論にすぎない」とみなされた。 〜  東西の道徳の源泉に言及しようとしたベルクソン( 1212夜 )でさえ、きっと後期仏典のフランス語訳をいくばくか齧った程度だったろうと思うのだが、「仏教が神秘主義であるとするのに躊躇しない」と述べるにとどまっている。 〜  いまはティク・ナット・ハン( 275夜 )の登場で、スピリチュアリズムやマインドフルネスに注目する精神医学界や心理学者たちも、20世紀の半分くらい、仏教に関心をもたなかった。ユングは道教とマンダラに注目したものの仏教心理には及ばず、フロイトは仏教を一瞥もしなかった。思うに、フロイト主義者で仏教を重視したのは「阿闍世コンプレックス」を提案した日本の古澤平作だけだろう。 〜  1959年にイギリスで、簡潔だが凝縮された一冊の本が刊行された。ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』である。以来、この本は「英語で書かれた最良のブッダ入門書」と言われてきた。3年ほど前に今枝由郎が訳して岩波文庫に入った。  ラーフラはスリランカ出身で、テラワーダ仏教(東南アジアに伝播した南伝仏教=上座部仏教)で育ち、セイロン大学で仏教史を学び、カルカッタ大学で大乗仏教研究に専心したのち、ソルボンヌ大学でポール・ドゥミヴィルの指導のもとに近代の哲学と科学にもとづく仏教研究に従事した。  『ブッダが説いたこと』はソルボンヌ期のあとの著作で、四諦(したい)、八正道、縁起、苦(ドゥッカ)を中心にブッダの教え解説して、西洋人向けにわかりやすく書けている。わかりやすいだけではなく、それまで西洋思想が掴みそこねてきた仏教観を大きく訂正した。ブッダに戻って解説したことに説得力があった。ブッダは世間(社会)を「苦」とみなし(一切皆苦)、安易な幸福など求める...

松岡正剛の千夜千冊・1752夜

 松岡正剛の千夜千冊・1752夜 大塚英志『「おたく」の精神史 —1980年代論—』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1752.html 〜  もっとも大塚英志のものとしてはもっと別な本を、たとえば『システムと儀式』(ちくま文庫)、『物語消費論』(新曜社→角川文庫)、『戦後まんがの表現空間』(法蔵館)、あるいは一連の民俗学をめぐる本など採り上げたほうがいいのだろうが、今夜は「おたく」ものにした。 〜  思想界ではどうか。前年の上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパブックス)に続いて(続いた訳ではないだろうが)、浅田彰の『構造と力』(勁草書房)と中沢新一( 979夜 )の『チベットのモーツァルト』(せりか書房→講談社学術文庫)が2ヵ月ちがいで刊行され、その後のニューアカ・ブームの到来を告げた。これはふつうはポストモダン思想の流行を告げるファンファーレとみなされるのだが、本書では性や消費やマンガ表象の記号化ののちの「シミュラークルの正体」( 639夜 )が露呈されたものとみなされている。 〜  83年はまた、4月に橋田寿賀子の《おしん》がNHKの朝ドラで放映開始されて異様なほどのブームとなり、年末にはロッキード裁判の丸紅ルートの判決が下って、田中角栄に懲役四年、追徴金5億円の実刑が課せられた。ぼくも招待されたのだが、もっと押し詰まってからの年末にYMOが日本武道館で散開コンサートをした年でもあった。寺山修司( 413夜 )が48歳で亡くなったことも忘れられない。  こう見てくると、83年には何かが示し合わせたように重なりあってシンクロ顕現していると感じざるをえない。大塚もたびたび断っているように、こうした「83年日本」を解明することは「おたく」の解読に直接つながることではないだろうものの、しかしこういう年次的な社会現象に突っ込んでいく見方は、やっぱり必要なのである。 〜  80年代には、サブカルや「おたく」に並んで喧伝された〝流行語〟がもうひとつあった。「新人類」だ。コロナ・パンデミックが地球大の猛威をふるい、地質人類学では新たに「人新世」(アントロポーセン)なる強力な用語が提案されて21世紀の思想界を覆いつつあるなか、いまさら「新人類」がなお市民権をもつとはとうてい思えないが、日本の80年代を議論するなら欠かせない...

松岡正剛の千夜千冊・1748夜

松岡正剛の千夜千冊・1748夜 清水真砂子 『子どもの本のもつ力 - 世界と出会える60冊 -』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1748.html 〜  瑞々しい一冊だった。長年にわたって培われてきた児童文学者としての目が透徹で聡明なところも、ル・グィンの『ゲド戦記』全6冊(岩波書店)の翻訳者として鳴らした言葉の力が滲み出ているところも、それぞれさることながら、人の生き方に掛け値なく向き合ってきた清水さんのクリーンな姿勢が子ども向けの数々の本と重なって、心を洗う「子どもの本」案内になっている。 〜  長じて清水さんは瀬田貞二(1918~1979)に私淑した。瀬田は児童文学作家で、草田男の俳誌「万緑」の初代編集長を担い、トールキンの『指輪物語』(評論社)などの翻訳者でもあった。晩年の石井桃子( 1015夜 )が「かつら文庫」を開放したのに倣って自宅に瀬田文庫をつくり、死の直前まで土曜日ごとの読み会を開いていた。『幼い子の文学』(中公新書)がいい本だった。 〜 (1)「かわいい」がとりこぼすものとは? 〜  ここでは、「かわいい」や「やさしい」だけの本を選んでばかりではいけませんという著者の基本姿勢が諄々と訴えられている。①子どもたちを安易な「かわいい」で取り囲んでしまってはいけない、②子ども本は大人になっても読むべきだ、③ときどき「さびしさ」を伝える立場から本を選んだほうがいい、という姿勢だ。 〜  子どもには「かわいい」だけではなく、どこかで「かなしい」や「こわい」や「いたい」が必要なのだ。コレラの蔓延で死の館に置き去りになった少女の物語、バーネットの名作『秘密の花園』(福音館書店)は、ぼくも中学校で読んで痛すぎるものを感じた。ワグナー/絵ブルックスの『まっくろけの まよなかネコよ お入り』(岩波書店)は、おばあさんと犬だけが暮らしているところへ黒猫が侵入してくる話だが、人生の哀歓が黒猫の目を通して感じられてくる。 〜 (2)ひとり居がもたらしてくれるもの 〜  ポーラ・フォックスの『十一歳の誕生日』(ぬぶん児童図書出版)は、母親の体に不具合があるために家の中でも足音をたてないようにしている少年ネッドが描写されているのだが、周囲からは不気味だとか幽霊みたいとか言われる。けれども、ネッドはしっかり周囲を見抜く少年になっていく。 〜...

松岡正剛の千夜千冊・1747夜

 松岡正剛の千夜千冊・1747夜 松村圭一郎 『うしろめたさの人類学』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1747.html 〜  政策や市場は明るい解決をめざしているのだが、いろいろなところに暗がりが見え隠れする。社会にも自分にも「ひずみ」がおこっているように感じる。何をしていても、なんとなく「もやもや」や「うしろめたさ」があとをひいているのは、そのせいかもしれない。  われわれは交換する動物である。交換によって社会をつくり、市場をつくり、国家をつくり、家族を構成してきた。 〜  気持ちのよい本だった。エチオピアでの滞在とフィールドワークをもとに綴った。 〜  エチオピアの村ではコーヒーを飲むときに、きまって隣り近所の人を招くらしい。エチオピアはアラビカ種のモカの原産地で、有数のコーヒー産出国である。みんなもコーヒーが大好きだ。それなのに一人や家族ではめったに飲まない。そんなことをしたら「あそこは自分たちだけでこっそりコーヒーを飲んでいる」と陰口をたたかれる。  なぜ、コーヒーを家族や一人で飲まないのか。 〜  けれども、そういう習慣は少なくなってしまった。なぜなのか。これも容易には説明がつかない。これまでの人類学はこういうことを解明してこなかったのである。マルセル・モース( 1507夜 )の贈与論やギフトの人類学だけでは、説明できない「何か」があるにちがいない。著者は「経済」と「非経済」の境界がどういうものかを考え、「関係」ということを考える。エチオピアをフィールドワークの対象に選んだのが、人類学の課題にとってよかったかもしれなかった。 〜  では、これらは「贈与」なのか。そうであるともいえるし、そうでないともいえる。「贈りもの」ともいえるが、「商品」ともいえるからだ。こうして著者は「援助」とはいったい何なのかを考える。 〜  とりあえず著者は、商品交換(=市場)、贈与(=社会)、再分配(=国家)の境界をゆるがしていくしかないと結論づけているけれど、境界を緩めるだけでは足りないようにも思う。そもそもの「収得」と「貸与」の価値観をゆるがせることも必要だろう。たとえばナタリー・サルトゥ=ラジュ( 1542夜 )の『借りの哲学』(太田出版)が提示してみせたような、「われわれは、最初から何かを借りて暮らしてきた」という視点の導入...

松岡正剛の千夜千冊・1741夜

松岡正剛の千夜千冊・1741夜 西山賢一 『免疫ネットワークの時代  — 複雑系で読む現代 — 』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1741.html 〜  この本は25年前の本である。インターネットが普及する前の1995年の刊行だ。windows95が出たばかりで、まだ9・11(2001)もSARS(2003)もリーマンショック(2007)も、おこっていない。  けれども本書は、それらを見越していたかのような内容になっている。レーガノミクスと金融工学の台頭とグローバルスタンダードの蔓延が進むなか、先行きはロクなものにならないとみなし、経済社会に求められているのは複雑系の中の「免疫ネットワーク」になるだろうというのが、この本の主張になっていた。 〜  西山さんは文化生態学の目で経済社会がどういうものであるべきかということを考えてきた。その目で見ると、経済はマクロな地球の要請とミクロな生活身体の要請の両方で成り立っていることがわかる。いわゆるマクロ経済とミクロ経済で成り立っているのではない。  マクロな経済は資源と環境の中に埋め込まれている。その起源は、地球が太陽からの秩序の高い光を受けとり、宇宙空間に秩序の低い熱を放出して、エネルギーを循環させていることにもとづいている。プリゴジンはこのしくみを「散逸構造」と名付けた(プリゴジン『確実性の終焉』 909夜 )。エントロピーをうまく捨てているのだ。  このしくみを採り入れて、光合成に始まる代謝系をつくりだしたのが地球生命である。このときRNAウイルスが先行してDNAの自己複製が始まり、ミトコンドリアが細胞膜の中にとりこまれた。そういう一連の出来事を、シュレーディンガー( 1043夜 )は「生命は負のエントロピーを食べている」と言った。バートランド・ラッセルは「そうしなければ、秩序が失われる」と言った。 〜  生命系のネットワークがもつ秩序の生成過程は、もっと複雑で、もっとノンリニアで、臨界的なのだ。  複雑系から見た地球生命の秩序には4つの種類がある。ウォルフラムやラングトンやカウフマン( 1076夜 )はそれを計算によって見通した。第1にはいずれ均一になる秩序がある。第2には周期的になる。第3にはカオスが形成される...

松岡正剛の千夜千冊・1738夜

松岡正剛の千夜千冊・1738夜 フレデリック・ケック 『流感世界  — パンデミックは神話か? — 』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1738.html 〜  ウイルスが遺伝子再集合をへて変異しているのである。DNAウイルスは修復機能をもっているが、RNAウイルスには複製エラーを修正するメカニズムがないので、転移の速度や頻度が高い。それだけではなく、分節RNAウイルスは一度だけの自己複製だけれど、新型コロナウイルスが非分節RNAウイルスだとしたら(きっとこのタイプだろう)、感染をくりかえしているうちにたくさんの断片に分離され、この断片が複製のたびに交換されているということになる。これは侮れない。移動が速いし、拡散岐が多い。  日本だけではない。パンデミック対策はいまだ世界中のガバナンスが組み立てできないでいるものだ。WHOは疫病流行の度合いを、特定地域流行のエンデミック(endemic)、集団発生型のエピデミック(epidemic)、世界的汎発のパンデミック(pandemic)に分けてはいるが、あまり深まってはいない。予測や効果の測定もできていないし、アクション・プログラムの咀嚼もできていない。 〜  生命とは代謝機構の発現と変異そのもののことである。地球はこの代謝機構がつながりあって巨大で複雑な代謝ネットワークを内在させている。どんな「生き死に」もこのなかで決まる。そこにはヒトだけでなく、すべての植物、すべての動物、すべての細菌、すべてのバクテリアが組みこまれている。ウイルスはこれらの隙間を高速に移動する。  ウイルスが悪者なのではない。敵なのでもない。敵だとすれば文明に「内在する敵」だ。では何がおこっているかといえば、すべての生命体に付属して動くベクター(vector)の出入りが事態のカギを握っている。ベクターは高速の運び屋で、運んでいるのは情報である。核酸分子の姿をとって、情報の増幅・維持・導入・転移に参与する。  何がベクターになるかは生命体によって異なるが、かつてジョシュア・レーダーバーグは『細胞遺伝子と遺伝的共生』(1952)という画期的な論文のなかで、生物種の境界をこえて受け渡されるDNA分子のことをプラスミド(plasmid)と命名して、プラスミドがベクター...

松岡正剛の千夜千冊・1736夜

松岡正剛の千夜千冊・1736夜 多和田葉子 『献灯使』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1736.html 〜  イワカン。違和感とも異和感とも、その気になればイ・ワカンとも岩間とも夷和観ともイワ・カーンとも綴れる。多和田葉子はドイツに住んですぐさま何かのイワカンを感じるのだが、それは日独、和洋、東西の溝から滲み出た得体の知れないものではあったものの、本人自身にはなぜか少し嬉しいものでもあって、その後の作家としての好奇心をかきたてるものだったようだ。 〜  『言葉と歩く日記』にこんな一節がある。編集工学屋として諸手をあげたいエクササイズのような一節だ。  「ほぐすことのできない単語に矛盾する形容詞を付けてみると、脳の一部がほぐれる感覚がある。(中略)閉鎖的開国、国民無視の民主主義、病的健康、敗け組の勝利、窮屈な自由、できるダメ人間、年とった若者、無駄なお金のかかる節約、贅沢な貧しさ、手間のかかる即席、安物の高級品、危険な安全保障。こうして集めてみると、これは単なる遊びではなく、社会を透かし見るのに必要なレトリックだという気さえしてくる」。  言葉遊びをしているフリをしながら、世を刺殺しているのだ。いやいや、これでもまだ遠慮しているのではないか。そうも、感じる。どうぞ多和田さん、思う存分に。 〜 ———————————- Wikipedia> https://ja.m.wikipedia.org/wiki/多和田葉子

松岡正剛の千夜千冊・1731夜

松岡正剛の千夜千冊・1731夜 エリッヒ・ヤンツ 『自己組織化する宇宙』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1731.html 〜  内田美恵がエリッヒ・ヤンツの論文のコピーをもってきて、「こんなおもしろい人がバークレーにいる。松岡さんにぴったりです」と言った。美恵ちゃんはアメリカ領事の娘で、工作舎が木幡和枝率いる同時通訳組織「フォーラム・インターナショナル」を引き受けたときのイニシャルメンバーである。 〜  さっそく「遊」に一部を紹介してみたが、やはりちゃんと翻訳して出版することにした。その途中、ぼくは工作舎を後進たちに任せて離れることになり、十川治江がその後の進行を引き受けて、充実したものに仕上げてくれた。翻訳のほうも芹沢高志君が加わって、万全なものになった。 〜  この本は原著が1980年の刊行ではあるが、その後の複雑系の議論からカオス理論まで、コミュニケーション仮説からサイバー生態系まで、さまざまなスコープを先取りして、総じては「創発するシステムとは何か」という今後の課題の見取図を提供してみせたスーパーマジックな大著になっている。 〜  こうして浮上してきたのが「メタゆらぎ」を内包した理論仮説の数々だ。まずはホワイトヘッド( 995夜 )の有機体論的なプロセス哲学である。また、これを継承したベルタランフィの一般システム理論やウォディントンのエピジェネティックな発生学である。さらにはプリゴジン( 909夜 )の熱力学的な散逸構造論、フォン・フェルスターの自己組織化論、マトゥラナとヴァレラ( 1063夜 )のオートポイーシス(自己創出)論である。  ヤンツはこれらをまとめて「自己組織化理論」(self-organizing theory)という枠組で捉え、「世界は自己組織化しようとしているはずだ」とみなした。いまでは自己組織化理論は、宇宙から生命まで、脳科学から社会科学まで、たいていの本格的な議論の大前提の考え方になっているが、当時はそこを広げてみる試みはきわめて少なかった(いまでも広げていく思想はあまりない)。 〜  自己組織化の「自己」(self)というのは、言わずもがなだろうけれど、いわゆる自我や自分のことではない。  自然界や現象界や生体系のさまざまなプロセ...

松岡正剛の千夜千冊・1730夜

松岡正剛の千夜千冊・1730夜 ジャン=ミシェル・モルポワ 『見えないものを集める蜜蜂』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1730.html 〜  新しい年になっていよいよ綴ることが息苦しくなってきて、それなのに片付けなければならないものはわんさと待っていて、何か割りの合わない一年になりそうだと思いつつ、いつもの自動リクライニング・チェアの背凭(もた)れを倒して鬱々としていたら、右側の書棚のちょっと奥にモルポワの『見えないものを集める蜜蜂』がひっそりしているのが目にとまった。 〜  書くとは、一度はちぎれ、あとから縫合された舌のことである。誰にだって癒えることのない聖痕はあるけれど、それは見ようによっては抒情の傷にならないでもない。それというのも、誰だって自分のリズムに従うすばらしい惨事をかかえているからだ。それなのに、私はうっかり世界をできるだけたくさん行李に詰めておくために書きはじめてしまった。 〜  そうこうしているうちに自分の言葉の背丈を伸ばそうとすると、それがふいにもっと書いてみるということになる。白い紙に花びらが散り、その花の名が生まれ、甘い蜜が滲み、蜜蜂たちがそれを啄(ついば)むと、未来の聖書に向かって紙が形をもって動き出す。 〜  カフェか教会でポケットから方眼ノートと鉛筆を取り出せればしめたものだ。きっとアンリ・ミショーの心臓の音を聞き、ルネ・シャールの心臓が音を鳴らしてやってくる。何を剥がして、何を受け入れればいいかが、キュティという皮膚反応をこえて伝わってくる。 〜  句読法はもともとは礼節であったはずである。けれどもクローデルやヴァレリー( 12夜 )が叱責したように、テニヲハや句点や読点やカギカッコでできている一般句読法には、もはや変幻がない。それらは捕虜収容所の鉄条網のようになっている。禁令になっている。  だから私は、好き勝手な方位点や水準点や、あるいは落下点や到着点が打ちたいのである。なかでも一番打ちたいのは弱点だ。ゆめゆめ、セミコロンで逃げを打ってはなるまい。  物の名を変えたいから書くのではない。言葉に報い、驚異を分泌して、世界を単調の灰の中から掬いとるために書く。 〜

松岡正剛の千夜千冊・1729夜

松岡正剛の千夜千冊・1729夜 E・T・A・ホフマン 『牡猫ムルの人生観』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1729.html 〜  ナタナエルはこんな手紙を幼ななじみのロタールに書いた。僕は小さい頃から母さんや婆やから世にも怖しい「砂男」なるものの話を聞かされてきた。眠らない子供の目玉をくりぬいてしまうという砂男だ。僕はきっと砂男はどこかにいるにちがいないと信じるようになった。 〜  ナタナエルはいったん帰省していたのだが、どこか熱に浮かされるようなことを言い、ロタールやクララとのあいだで諍いがおこるようになっていた。ナタナエルはもともと夢うつつな男の子なのだ。あげくにちょっとした行き違いで、ロタールと決闘することにさえなるのだが、クララが止めに入って事なきをえた。 〜  ナタナエルは母親と幼なじみと別荘に移ることになった。4人で別荘に向かっている途中、クララが市庁舎の塔に目をつけ、ねえ、あそこに昇ろうよと言った。塔の上でナタナエルが望遠鏡を出して景色を眺め、ナタナエルはクララを塔から投げ捨てた。「まわれ、まわれ」と言いながら、ナタナエルも塔から落ちて死んだ。  騒ぎを聞いて駆けつけた人ごみの中に、あの弁護士コッペリウス(砂男)の姿があった‥‥。 〜  砂男がどうして砂男(Sandmann)とよばれているかということも、付け加えておかなければならない。この怪物は眠らない子の目に砂をかけ、その目玉を取り出してしまうのである。 〜  牡猫のムルは1810年代のドイツの某都市ジークハルツヴァイラーの屋根裏の暗がりで生まれた。すぐに表で遊ぶようになったが、母猫がどこかに行っているあいだに、通りすがった老婆がムルと数匹の子猫を近くの川に捨てた。ムルは溺れかかり、なんとか必死で橋桁にしがみついていたところ、そこへ魔術師のアブラハム・リスコフ(あのアブラハムだ)がずぶ濡れの子猫に気がつき、拾って帰ってムルと名付けた(さきほどウェブを覗いてみたら、日本には何軒かの「ムル」というペットショップがあった)。  ムルは魔術師の日々にすぐ慣れた。慣れるのは当たり前、そんなものじゃない。ご主人の机の上に前脚を折って坐り、アブラハムが声を出して本を読むのを聞き、文字を目で追ううちちにドイツ語を...

松岡正剛の千夜千冊・1726夜

松岡正剛の千夜千冊・1726夜 室井康成 『事大主義』 URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1726.html 〜  慰安婦問題、徴用工問題、竹島領有問題などが重なって、日韓関係はややこしいデッドロックにひっかかったままにある。拉致問題このかた北朝鮮との他人行儀すぎる付き合いも、およそ打開策をもてないでいる。「韓流ブーム」かとおもえば「嫌韓」なのである。 〜  英語では「事大主義」のことを“toadysm”とか“flukyism”と言うのだが、この英語からは東アジアにおける事大主義の複雑骨折したような動向は見えにくい。 〜  とくに近代日本では福沢諭吉( 412夜 )が「事大」に「主義」をくっつけて「事大主義」という新しい言葉をつくってから、歴史的意味が変化した。 〜  もともと「事大」という言葉は孟子( 1567夜 )の「以小事大」に由来して、小国が選んで大国に「事(つか)えることをあらわした。 〜  ということで、本書は次のように結ばれる。‥‥事大主義の起源は、日本が描き出した朝鮮という「他者像」なのである。だが、それは見つめれば見つめるほど、自分の姿とよく似ていた。だから事大主義こそ日本の国民性だとする言説は、朝鮮を“鏡”として描き出された日本の「自画像」だったのである。  きっとそういうことだったのだろうと思う。そう思うのではあるが、このようなことは日本や朝鮮半島や東アジアにのみあてはまるのかどうかといえば、そうでもあるまい。ジュリア・クリスティヴァ( 1028夜 )の言う「アブジェクシオン」(おぞましさ)が東アジアのもっと深いところで、もっと多民族間の「恐外病と侮外病」になってきたのだと思われる。 〜