松岡正剛の千夜千冊・1763夜
ギー・ドゥボール
『スペクタクルの社会』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1763.html
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かつてスペクタクル(spectacle)は大掛かりな見世物や光景のことをさしていた。古代の祝祭はほとんどがスペクタクルだ。とくに王権は権威の示威として祝祭をスペクタクル(めざましいもの)にした。フレイザー(1199夜)の『金枝篇』やエリアーデ(1002夜)の『聖なる空間と時間』などにあきらかだ。祝祭だけではない。古代中世を通じて巨きな建造物の出現や激突する戦乱、目を奪う気象変化や疫病の流行もスペクタクルだった。
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ぼくの見方では、ウィリアム・ターナー(1221夜)がこうした本来の意味でのスペクタクルを描こうとした最初の近代画家だったと思われる。ターナーにとっては港の気象も不思議な色彩に染まった夜明けも、雪山事故も遭難の光景も、驀進する蒸気機関車もスペクタクルだった。このこと、NHKの日曜美術館のターナー特集で話したことがあるが、その箇所は削られていた。テレビはそういうことを、のべつやっている。
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つまりは20世紀の最大のスペクタクルは「資本のスペクタクル」なのである。資本主義こそはこのスペクタクルの化け物のような巨大エンジンだった。しかし、一部の者にはもうひとつのスペクタクルがのこっていた。それは「革命のスペクタクル」である。資本主義そのものがスペクタクルであるとともに、それを覆すためのすべての試みもスペクタクルたりえたはずだった。
60年代半ば、パリのギー・ドゥボールがそのことをみごとに衝いた。次のように。
(4)スペクタクルはさまざまなイメージの総体では
なく、イメージによって媒介された諸個人の社
会的関係である。
……
(219)スペクタクルとは、世界の存在-不在にとり
つかれた自我が解体することによって生じる自
我と世界との境界の喪失である。それはまた、
生きられた真理をすべて、外観の組織化によっ
て保証された虚偽性の現実存在の下に抑圧する
ことによって、真―偽の境界をも消し去ってし
まう。
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[注20]最初に書いておいたように、スペクタクルは示威でもあった。示威行為はデモンストレーションであるが、これは英語の“demonstration”という綴りを見ればわかるように、そこに隠れていた“monster”(モンスター)を外に(de)暴いてみせること、「デ・モンスター」することをいう。ひそんでいた怪物を見せること、それが示威であり、デモンストレーションであり、スペクタクルだったのだ。
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