松岡正剛の千夜千冊・1766夜
ブリュノ・ラトゥール
『近代の〈物神事実〉崇拝について』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1766.html
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本書の原題はフランス語の『フェティシュ(物神)』であるが、邦訳タイトルはすこし長めになって「物神事実」という聞きなれない言葉をつかっている。
これはフランス語で「ファクティシュ」(factish)という造語の日本語訳で、ファクト(fact)とフェティシュ(fetish)が掛け算されて、くっつきあっている。ラトゥールが造語した。或る地域や或るアート行為などで、或る「物的な事実」がフェティシュの対象になるとき、そこにはファクティシュ(物神事実)とでもいうべき〈新たなもの〉や〈変な感じ〉が誕生もしくは派生しているのではないかというのだ。
ファクティシュという坐りの悪い用語で説明するかどうかはべつとして、フェティシュ(フェチ)が生まれる物神化の行為のプロセスに、新たな事実発現性のようなこと、あるいはそれに似たことがおこっているだろうことは予測がつく。18世紀にド・ブロス(1765夜)が発見したフェティシュ(物神)は何かの「もの」にこだわることであるが、そのこだわりが「もの」についての認識や評判を変えるのだ。あるいは「もの」を見る目を変えるのだ。「もの」が「こと」(事実)になり、その「こと」が「もの」を変えるのだ。
おばあさんが帰りにくれたリンゴ、セザンヌが描いたリンゴ、神棚に供えられたリンゴ、アップル社が齧ったリンゴのマークは、そのへんの「リンゴ一般」ではないし、日記に綴った海水浴の浜辺、誰かが目撃した交通事故、チャーチルが発動した報復攻撃指示書、文春砲が書いた不倫は、普通名詞としての「事実」ではなく「物神化された事実」として区別されていく。
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おそらく「準主体」(quasi-subject)ともいうべきものが立ち上がり、おそらくは準客体と激しい作用をおこした。
この見方はミシェル・セールの「準主体/準客体」の影響を強くうけた見方で、主体と客体を分けない見方だった。主体と客体それぞれが互いにハイブリッドになっているという見方だ。この見方を説明するために師のセールから借りた「準」(なぞらえ)に着目したところがユニークだった。
何を準えたのか。あるいは何が準えられたのか。それで何が「準」によっておこったのか。主体が発動してオブジェクトを変えていったのではなく、「もの」に準拠して主体が動いたのだ。セールはそのことを「モノ主体」とも言っていたが、ラトゥールはここを発展させた。
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