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松岡正剛の千夜千冊・1757夜

 松岡正剛の千夜千冊・1757夜

リチャード・ゴンブリッチ

『ブッダが考えたこと

—プロセスとしての自己と世界—』

URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1757.html

 20世紀半ばにいたるまで、ヨーロッパにおいて「ブッダの教え」がどのように受けとめられてきたかという歴史は、一言でいえば惨憺たるものだ。多少は仏教に興味をもった知識人たちの理解もかなり心もとないもので、おおむねは「仏教は無神論だ」「仏教は哲学であって宗教ではない」「仏教は汎仏論、ないしは汎心論にすぎない」とみなされた。

 東西の道徳の源泉に言及しようとしたベルクソン(1212夜)でさえ、きっと後期仏典のフランス語訳をいくばくか齧った程度だったろうと思うのだが、「仏教が神秘主義であるとするのに躊躇しない」と述べるにとどまっている。

 いまはティク・ナット・ハン(275夜)の登場で、スピリチュアリズムやマインドフルネスに注目する精神医学界や心理学者たちも、20世紀の半分くらい、仏教に関心をもたなかった。ユングは道教とマンダラに注目したものの仏教心理には及ばず、フロイトは仏教を一瞥もしなかった。思うに、フロイト主義者で仏教を重視したのは「阿闍世コンプレックス」を提案した日本の古澤平作だけだろう。

 1959年にイギリスで、簡潔だが凝縮された一冊の本が刊行された。ワールポラ・ラーフラの『ブッダが説いたこと』である。以来、この本は「英語で書かれた最良のブッダ入門書」と言われてきた。3年ほど前に今枝由郎が訳して岩波文庫に入った。

 ラーフラはスリランカ出身で、テラワーダ仏教(東南アジアに伝播した南伝仏教=上座部仏教)で育ち、セイロン大学で仏教史を学び、カルカッタ大学で大乗仏教研究に専心したのち、ソルボンヌ大学でポール・ドゥミヴィルの指導のもとに近代の哲学と科学にもとづく仏教研究に従事した。

 『ブッダが説いたこと』はソルボンヌ期のあとの著作で、四諦(したい)、八正道、縁起、苦(ドゥッカ)を中心にブッダの教え解説して、西洋人向けにわかりやすく書けている。わかりやすいだけではなく、それまで西洋思想が掴みそこねてきた仏教観を大きく訂正した。ブッダに戻って解説したことに説得力があった。ブッダは世間(社会)を「苦」とみなし(一切皆苦)、安易な幸福など求めるなと説いたのだが、それはきわめて積極的なものだったとラーフラは書いた。

 これらはまとめて「因果応報」(因中有果)の出来事だと解釈された。因(原因)によって果(結果)が決まる。この因果応報によって善因業果、悪因苦果、自業自得がおこる。いまでも日本人がよく口にする「自業自得」とはカルマが付着しきった状態のことをいう。因果応報は英語では“casual retribution”という。

 どうすればサーンキヤらの考え方を“脱構築”したらいいのか。そこでブッダがとりあげたのが「五蘊」(ごうん)の扱いだった。五蘊をインド哲学的な特徴をもつ概念の牢獄から解き放って、あくまで覚醒のためのプロセスとして扱い、そのプロセスを通してその「実体のなさ」を明言することにした。

 五蘊がないと言ったのではない。五蘊にとらわれるな、五蘊をプロセス(過程的変化)にもちこんでしまえと言ったのだ。

 近代以降の日本人は仏教思想には詳しくないが、なぜか『般若心経』には親しんできた。玄奘が『般若経』のエッセンスを特別に濃縮編集をした。みごとな手際の、とても短いエッセンシャル・スートラだ。英語では“Heart Sutra”という。

 その『般若心経』は「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」というふうに始まる。そのあとに「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という有名なフレーズが続く。冒頭3句目に「五蘊皆空」(ごうんかいくう)と出てくる。

 ぼくはいっとき日本の哲学者たちが提唱した比較思想学に期待したけれど、こちらのほうも残念ながら中村元(1021夜)の『比較思想論』(岩波書店)から峰島旭雄の『西洋は仏教をどうとらえるか』(東京書籍)まで、ぐっとくる成果をほとんどもたらしてくれなかったと感じている。

 世界観の脱構築をめざしたポストモダン思想も、まったく仏教を考慮しなかった。ひどい手抜きだった。ぼくは機会あってフェリックス・ガタリ(1082夜)に二度にわたってそのことを強く訴えたけれど、通じなかった(ガタリには「菩薩」の行為的身体行について考えるべきだと言った)。そこで日本側の井筒俊彦、秋月龍岷、鎌田茂雄(1700夜)、中沢新一(979夜)、仲正昌樹、佐々木閑、下田正弘らに期待したものだったが、その後はどうか。

 ちなみにユーラシアに広がった仏教の変容については、彌永信美(いやながのぶみ)の『幻想の東洋』(青土社→ちくま学芸文庫)や、その後の仏教神話学がスケッチした『大黒天変相』『観音変容譚』(法蔵館)などに詳しいのだが、あまり注目されてこなかった。日本側も彌永が何を議論したかったのか、まともに検討していない。このあたりにも光が当たってほしい。

 ブッダの思想は、その後の大乗仏教の思想とは同じではない。密教や禅の成果をそのままブッダにあてはめられるわけでもない。法然(1239夜)や親鸞(397夜)や道元(988夜)の日本仏教とも異なっている。ぼくは仏教が21世紀思想の新たな「中道」になることに大きい期待をもっているけれど、そのためにもあらためて、ブッダの原始仏教に(できればインド六派哲学とジャイナ教にも)、あえて獰猛な関心を寄せたほうがいいのではないかと思っている。