松岡正剛の千夜千冊・1770夜
ミシェル・セール
『小枝とフォーマット
- 更新と再生の思想 - 』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1770.html
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セールが見るに、ギリシア・アルファベットが一番のデーウゥティーオだった。表記法は言語部族や言語才能によってもたらされるけれど、それがフォーマットになるには何か「とてつもない機能性」が作動して、かつ「献身」しなければならない。セールにはそう思えた(そう、思いたかった)。ギリシア・アルファベットにはそれがあった。だからホメロス(999夜)はそこに共感し、アルファベットというフォーマットから叙事詩という物語の小枝を繁茂させ、六脚韻を献身させた。
だったら、ピタゴラスの定理やエラトステネスの測地法やプラトン(799夜)の理想政治思想も、そういうものだったろう。同じことがダンテ(913夜)の地獄篇に、ラ・フォンテーヌの寓話に、サディ・カルノーの熱力学に、ベルクソン(1212夜)の意識の流れに、ホワイトヘッド(995夜)のネクサスにおこったろう。そんなふうにセールは見通した。
日本人のぼくはここで、ところで、日本ではと思う。本居宣長(992夜)が遭遇したのは逆のことだった。漢文のみで書かれた『日本書紀』はむろんのこと、『古事記』にも日本語によるフォーマットがなかったのである(あるいは「からごごろ」=「漢意」によって半ば隠れていた)。
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(03)フォーマットとはやや異なるが、セールには『アトラス』(1994)という一冊もあって、われわれは「地図帳」(アトラス)で何を示してきたのか、何をしようとしてきたのかを問うていた。
アトラスはいろいろなところにいろいろなしくみをもって出現した。アリストテレス(291夜)からデカルトまでを夢中にさせた気象図、モーペルチュイを動かした気圧図、オーギュスト・コントが熱中した潮汐図、リューベックやヴェネチアなどの中世の都市図、電気の登場とともに広がった配電図、神殿や寺院や住宅の設計図、いずれもアトラスだ。
心電図はその男の心臓活動のアトラスで、CTスキャンされた体内画像はその男の疾患アトラスで、どこかの家の間取りはその男の家族や日々の属性を投影する住処(すみか)のアトラスなのである。
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11から12に移るところで「さて、古代ギリシア語では、angelos は使者を意味する。朝、あなたが出勤する際に、」というふうに急に「天使」にまつわる語彙の歴史が登場し、その語彙の歴史の風情のままそれが朝の出勤中の群像の中に紛れていくという展開は、これまたセールがしょっちゅうやってのけてきた超絶技法的な書きっぷりなのである。とくにギリシア語やラテン語を複合語源とする語彙に躓かせておいて(ここではangelos)、そこから反転したり飛翔するのは得意中の得意だ。宣長はすべてを語彙の読み換えから始めたが、セールは途中で語彙による「歴史の忘れもの点検」をエリック・クラプトンの演奏のようにやってみせるのだ。
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「したがって歴史とは、重いものを担う、物を熱する、情報を伝達する、という労働と仕事の三幕のドラマであり、アトラスとヘラクレス、プロメテウスもしくはマクスウェルの魔物、ヘルメスと〈天使〉たちという、人物像や主役たちの三つの集団であり、固体、液体、揮発性という、物質の三状態であり、可逆的時間、エントロピー的時間、ネゲントロピー的時間という、三つの時間であり‥‥それゆえ、人間とその諸技術の歴史であり、しかしまた同じく科学の歴史であるが、それというのも、そこで力学のあとを受けているからであり‥‥、その熱力学は‥‥」というふうに結ばれていくのである。
これって、まさにセールの思想のすべての言い換えになっている。それをこんなところの数行にこんなふうにタクワンの漬け物のように書くなんて、泣きたくなる。ぼくはその切なすぎる華厳的愛情に嗚咽する。
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最後に一言加えておくが、セールの書きっぷりはヨーロッパ思想としてはめずらしく華厳的で相依相入的なのである。ぼくはもうそんな冒険的なことにはとりくまないが、セールを読み直すにはライプニッツと華厳を相互浸透させつつ、セールの文体を電子媒体などつかってリミックスさせていくとおもしろいのではあるまいか(中沢新一君ならそんな芸当を心得ているだろう)。
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