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松岡正剛の千夜千冊・1762夜

 松岡正剛の千夜千冊・1762夜

篠田正浩

『河原者ノススメ

— 死穢と修羅の記憶  —

URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1762.html

 篠田監督とは一度しか出会っていないが、某文芸賞受賞パーティの会場で会ったとたん、開口一番「僕ね、松岡さんの千夜千冊を読むの、楽しみなんだよ」だった。こちらも監督の作品はもちろん見てきた。学生時代の《乾いた花》《心中天網島》は先鋭的で清新だったし、最後に《スパイ・ゾルゲ》で尾崎秀実を撮って引退したことには覚悟を感じた。

 監督は昭和6年の満州事変のときに岐阜で生まれて、14歳で敗戦を体験した。十代半ばでの敗戦・占領、東京裁判は心にきつい。ゾルゲや尾崎を監督最後の作品にしたくなる経歴だ。谷川俊太郎、野村万作、磯崎新(898夜)、山口昌男(907夜)、高橋和巳、有吉佐和子(301夜)、勝新太郎らと同い歳だ。野坂昭如(877夜)は一ツ歳上の昭和5年だが、戦前は本と敗戦日本の極端すぎる変貌ぶりが、『この国のなくしもの』を書かせた。

 若い吉右衛門と岩下志摩を粟津潔のグラフィズムで新たな近松に仕立てた《心中天網島》には、誰もがあっと声を上げた。その後の、坂口安吾(873夜)の佳作をアレンジした若山富三郎主演の《桜の森の満開の下》、放浪芸の悲哀を原田芳雄・岩下志麻・武満徹(1033夜)で雪中に染ませた《はなれ瞽女おりん》、皆川博子の原作をフランキー堺が蔦屋重三郎を、大道芸人十郎兵衛(実は写楽)を真田広之が演じた《写楽》、玉三郎に竜神・白雪姫を演らせて鏡花(917夜)に挑んだ《夜叉ケ池》など、いずれも「日本の心情」に訴える意欲作だった。

 もうひとつあった。篠田さんが司馬遼太郎原作の《梟の城》を撮っていたとき、伊賀の忍者どうしが四条河原で芝居小屋や見世物小屋の人ごみに紛れて暗闘する場面があるのだが、そこに壬生狂言の音曲を使ってみようとして交渉したところ、保存会から「われわれが伝承している狂言は重要無形文化財で、河原乞食の芸とはちがいます」と断られたのだ。


 これらのことは篠田にひそむ河原者の気概に火を付けた。あるとき善光寺で「おびんるず様」を見たとき、ハッとした。

 だから本書は篠田正浩の「風姿花伝」であって「翁の座」であって、折口(143夜)・近松(974夜)なのである。読んでいると、呉服屋(悉皆屋)だったぼくの父親が初代吉右衛門や池田弥三郎と話していた雑談や、30歳前後に高橋秀元と毎夜「もうひとつの日本文化」をめぐって交わしていた頃を思い出す。415夜で千夜千冊もした『日本架空伝承人名事典』(平凡社)を何百回もめくっている話のようにも感じた。

 家康は秀頼を殺し、愛児の国松は大坂城が落ちたのち「あおや」の手で六条河原で処刑された。その記憶も記録は、たちどころにデリートされ、なんらかの美談に転化されていた。

 「あおや」は青屋だ。藍染めの染物屋のことをいう。「あおや人外の事」と蔑まれて、鎌倉時代から処刑を担う仕事を任された。頼朝の近くにいながら朝廷に無礼をはたらいたというので流された文覚上人が、義朝の首が落とされたときに見張り番をし、その首を葬ったのは青屋だったと言っている。

 紺屋(広野)=紺掻き=青屋が忌わしい刑場とかかわりをもたせられたのは、原料の蓼科の植物を栽培し、木灰からつくった灰汁(あく)を発酵させるという仕事が、人気(ひとけ)のない水辺でおこなわれていたからだろう。脇田晴子の『日本中世被差別民の研究』(岩波書店)には九条河原に青屋の仕事場があり、東寺の境内で染物を干していたとある。ぼくの父も「あおや」のことは、よく知っていた。田中縁紅さんから、その手の話を聞いていた。