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松岡正剛の千夜千冊・1730夜

松岡正剛の千夜千冊・1730夜
ジャン=ミシェル・モルポワ
『見えないものを集める蜜蜂』
 新しい年になっていよいよ綴ることが息苦しくなってきて、それなのに片付けなければならないものはわんさと待っていて、何か割りの合わない一年になりそうだと思いつつ、いつもの自動リクライニング・チェアの背凭(もた)れを倒して鬱々としていたら、右側の書棚のちょっと奥にモルポワの『見えないものを集める蜜蜂』がひっそりしているのが目にとまった。
 書くとは、一度はちぎれ、あとから縫合された舌のことである。誰にだって癒えることのない聖痕はあるけれど、それは見ようによっては抒情の傷にならないでもない。それというのも、誰だって自分のリズムに従うすばらしい惨事をかかえているからだ。それなのに、私はうっかり世界をできるだけたくさん行李に詰めておくために書きはじめてしまった。
 そうこうしているうちに自分の言葉の背丈を伸ばそうとすると、それがふいにもっと書いてみるということになる。白い紙に花びらが散り、その花の名が生まれ、甘い蜜が滲み、蜜蜂たちがそれを啄(ついば)むと、未来の聖書に向かって紙が形をもって動き出す。
 カフェか教会でポケットから方眼ノートと鉛筆を取り出せればしめたものだ。きっとアンリ・ミショーの心臓の音を聞き、ルネ・シャールの心臓が音を鳴らしてやってくる。何を剥がして、何を受け入れればいいかが、キュティという皮膚反応をこえて伝わってくる。
 句読法はもともとは礼節であったはずである。けれどもクローデルやヴァレリー(12夜)が叱責したように、テニヲハや句点や読点やカギカッコでできている一般句読法には、もはや変幻がない。それらは捕虜収容所の鉄条網のようになっている。禁令になっている。
 だから私は、好き勝手な方位点や水準点や、あるいは落下点や到着点が打ちたいのである。なかでも一番打ちたいのは弱点だ。ゆめゆめ、セミコロンで逃げを打ってはなるまい。
 物の名を変えたいから書くのではない。言葉に報い、驚異を分泌して、世界を単調の灰の中から掬いとるために書く。