松岡正剛の千夜千冊・1767夜
田中雅一編
『フェティシズム論の系譜と展望
越境するモノ/侵犯する身体』
京都大学学術出版会 2009・2014・2017
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1767.html
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イギー・ポップのパンクステージ、横尾忠則のポスター、エットレ・ソットサス(1014夜)のメンフィス・デザイン、ジャン・ジュネ全集(346夜)、四谷シモンの人形、ヴィダル・サスーンの鋏と指、忌野清志郎の「シングルマン」、ボードリヤールのシミュラークル議論、ヴィヴィアン・ウェストウッドの無政府コスチューム、荒木経惟(1105夜)が撮った部屋の中の女たち、いずれにもフェチが躍っていた。ぼくはこれらを遠近(おちこち)の浪枕に「遊」を編集していた。
フェティシュというよりフェチ。そう言うとなんだか「きわもの」(際物)を取り出されたように感じるだろうが、人の心身を奪ってやまないのはフェティシュもフェチも同じこと、あえて多少自嘲気味に「フェチ」と発音したり綴ったりするほうが、きわどいものが本来の消息をこっそり告げているようで、その「後ろめたさ」がおもしろい。
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人それぞれ、いろいろのフェチ。寺山修司(1197夜)は「ぼくは日本語フェチなんだよ」と言っていたし、数年前のことだが、杉本博司(1704夜)は「60歳をすぎてからラブドール・フェチになったんだよ」と笑っていた。ラブドールとはよくできたダッチワイフのことだ。
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こんなふうに日本ではフェティシズム研究の偏向と体たらくとフロイト一辺倒が長らく続いていたのだが、最近になってついにこの貧しさをアカデミックに突破する試みが出てきた。今夜はそこを紹介する。
京大で南アジア人類学とジェンダー学を教えている田中雅一(まさかず)が、2009年から十年近くにわたって準備執筆編集した「フェティシズム研究」というシリーズがある。多くの研究者や執筆者が参加して、『フェティシズム論の系譜と展望』『越境するモノ』『侵犯する身体』という3冊シリーズになった。京大人文研での64回の研究会、68人の報告にもとづいているらしい。
全部が全部おもしろいというわけでないし、ぜひとも紹介したいというものばかりでもなく、また学術のロジックに捕らわれているものも少なくないのだが、いまのところフェティシズムの検討では最も広く展望しているシリーズなので、関心がある者にとっては必見の3冊だろうと思う。今夜はそのごくごく一部の興味がおもむいたところをかいつまむ。
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なかでも中谷礼仁の「セヴェラルネス」(=いろいろ性・たくさん性)を媒介にして、ラトゥール(1766夜)の「ファクティシュ」とアフォーダンス理論とチクセントミハイのフロー体験仮説をつなげようとした論考(足立明)は、ファクティシュとしての仏教とエイジェンシーとしての仏教徒の議論にまで及んで興味深かった。
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では、2冊目を少々かいつまんでおく。第1章ではド・ブロスが注目した西アフリカのフェティシュについて、主にウィリアム・ピーツとデヴィッド・グレイバーの議論が紹介されるのだが(石井美保)、ぼくはピーツの『フェティッシュとは何か』(以文社)程度の分析はありきたりでおもしろくないと思ってきたので、グレイバーにもっと焦点をあててほしかった。グレイバーは「フェティッシュとは構築中の神である」と喝破した人類学者だが、アナーキーが何たるかもわかっていた。フェティシュ論にはアナキズムも必要なのである。
第2章のスワミー・ヴィヴェーカーナンダの議論を中心においた「リンガとファルス」は、読んだほうがいい(田辺明生)。これまでリンガ・ヨーニ(男根と女陰の接合オブジェ)はファリック・シンボルとしてシヴァ神と女神パールヴァティに肖(あやか)った男女合体の賛美装置とみなされてきたのだが、実は「女陰に生えた男根」のイコン的表象だったというのだ。きっとこのほうが当たっているように思う。
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3冊目の『侵犯する身体』は、3冊のなかではフェチ感が一番伝わりやすい内容になっている。顔・美容・皮膚・手足・洋服・下着などの身体が積極的にかかわっているからだ。
かつて上野千鶴子の『セクシィ・ギャルの大研究』(カッパブックス)や『スカートの下の劇場』(河出書房新社)が上梓されたとき、ぼくはこれでやって従来の社会学のタガを外せる社会学者があらわれたと快哉を送ったものだが、それはいいかえればフェチも社会学になる権利を主張するようになったということでもあった。
実際、従来のデュルケムやウェーバーの社会学では身体はひどく周辺扱いされてきた。フッサール(1712夜)の現象学やベルクソンの記憶哲学でもそうだった。それが「間身体性」を重視したメルロ=ポンティ(123夜)の出現あたりから変わってきた。またメアリー・ダグラスの『汚穢と禁忌』(思潮社)あたりから変わってきた。
たんに身体が重要だというだけなのではない。それなら健康思想の隆盛となんら変わらないし、バランスのとれたエコロジカル・ボディが称揚されるだけになる。そうではなくて、身体的なるものに禁止や抑圧や歪曲がかかることを積極的に含めた身体哲学が浮上してきたのだ。
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第14章で押井守(1759夜)の『攻殻機動隊』や『イノセンス』のゴーストをめぐった「サイボーグに性別はあるか」(田村公江)、15章でSNSでのレスポンスにあらわれたフェチにこだわった「BBSの片隅で」(菊地暁)が、そのへんを話題にしておもしろい。
押井守にとってゴーストは生物でも非生物でもない。機械でも人間でもない。傷つきやすい存在者の個性に付加できるフラジャイルな装填概念として想定されたのがゴーストなのである。これはフェティシュの抽象化としては最も純度が高いものかもしれない。ところが『イノセンス』には、そのゴーストをコピーする「ゴーストダビング」という技術が登場したのである。ゴーストの複製量産だ。おそらく草薙素子はこれを「二重の否認」にもちこむにはどうするかと悩んだのだろう。
といったことを考えてみると、フェティシュの極みにはいったい何があるのかというほうに向かってみたくなる。
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