松岡正剛の千夜千冊・1761夜
ダン・スペルベル
『表象は感染する
文化への自然主義的アプローチ』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1761.html
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いま多くの統治者と都会住民たちが、地球上をかなりの速度で席巻して人から人へと感染力を及ぼしているウイルスに、あたふたしたままにいる。緊急事態宣言を出したものかどうか、ぐすぐず数カ月を逡巡している国もある。
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地球上で感染していくものは病原菌やウイルスとはかぎらない。人類は長らく社会文化的感染症にかかりっぱなしだった。
このことを最初に明示してみせたのは、1920〜30年代のアーサー・ラブジョイ(637夜)である。ラブジョイはジョンズ・ホプキンス大学で知的探検団「観念の歴史クラブ」をつくって、観念(idea)こそが歴史に決定的な感染連鎖をもたらしてきたことを強調し、人々が「漠然たること」には影響力がないと思っていたことを打ち砕いてみせた。
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われわれの脳には、われわれの意思や行動を選択したり決定づけるための膨大な量の観念が出入りし、宿されている。何かを行動したり考えたりするたびに、脳から選び出された観念はさまざまな形を装って外に出てくる。
その形は文字であることも音楽であることも、大工仕事であることもファッションであることもある。いずれも表象になる。その表象に接すると、それに類似するものが他人の脳に移る。移るは、写るといっても映るといってもいいし、「伝染(うつ)る」と綴ってもいい。類が友を呼び、ルイジ君とソージ君が活躍して、観念は表象を伴って伝染し、増殖していく。こうして文化そのものが地球上に感染していくのである。
そのようなことを考えていくことを、ダン・スペルベルは「表象の疫学」(epidemiology of representation)と名付けた。きわどい命名だが、たいへん意味深長な命名だ。
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ここで表象は、①ある対象や現象が、②何かについての、③ある情報処理装置にとっての表象になる、というふうにかたちづくられる。この情報処理は個人内過程(intra-individual processes)と個人間過程(inter-individual processes)をもつ。表象の変異はこのプロセスのどこかで、おそらくは情報がかたちの制約をうけるインターフェースの前後でおこる。情報がかたちの制約をうけるのは、イン・フォーム(inform)という情報の性質のそもそもの動向にもとづく。
観念が刺激をうけて感染症状をもたらすには、そこにやってくるコミュニケーション力(=情報の伝達力)が一定の強度である必要はない。このことも人類学の調査はあきらかにした。大声でも小声でもいいし、長文でも短文でも、哲学でもお笑いでもいい。つまりは直示(ostension)でも暗示(suggestion)でもかまわない。
脳が敏感だから、感染するのではない。人間の社会文化の歴史が長らく培ってきた「意味」があまりにも多様になって、過敏に育ってきたから、刺戦の大小をこえて感染する。感染が地域的に集中すると、人類の記憶のそこかしこにしばしば集合表象(collective representation)が刻印された。アウトブレイクがおこるのだ。人類には、そういう「意味の多様性」を受信する(情報処理する)能力や装置性ができてしまっていたからだ。
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