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松岡正剛の千夜千冊・1741夜

松岡正剛の千夜千冊・1741夜
西山賢一
『免疫ネットワークの時代
 — 複雑系で読む現代 — 』
 この本は25年前の本である。インターネットが普及する前の1995年の刊行だ。windows95が出たばかりで、まだ9・11(2001)もSARS(2003)もリーマンショック(2007)も、おこっていない。
 けれども本書は、それらを見越していたかのような内容になっている。レーガノミクスと金融工学の台頭とグローバルスタンダードの蔓延が進むなか、先行きはロクなものにならないとみなし、経済社会に求められているのは複雑系の中の「免疫ネットワーク」になるだろうというのが、この本の主張になっていた。
 西山さんは文化生態学の目で経済社会がどういうものであるべきかということを考えてきた。その目で見ると、経済はマクロな地球の要請とミクロな生活身体の要請の両方で成り立っていることがわかる。いわゆるマクロ経済とミクロ経済で成り立っているのではない。
 マクロな経済は資源と環境の中に埋め込まれている。その起源は、地球が太陽からの秩序の高い光を受けとり、宇宙空間に秩序の低い熱を放出して、エネルギーを循環させていることにもとづいている。プリゴジンはこのしくみを「散逸構造」と名付けた(プリゴジン『確実性の終焉』909夜)。エントロピーをうまく捨てているのだ。
 このしくみを採り入れて、光合成に始まる代謝系をつくりだしたのが地球生命である。このときRNAウイルスが先行してDNAの自己複製が始まり、ミトコンドリアが細胞膜の中にとりこまれた。そういう一連の出来事を、シュレーディンガー(1043夜)は「生命は負のエントロピーを食べている」と言った。バートランド・ラッセルは「そうしなければ、秩序が失われる」と言った。
 生命系のネットワークがもつ秩序の生成過程は、もっと複雑で、もっとノンリニアで、臨界的なのだ。
 複雑系から見た地球生命の秩序には4つの種類がある。ウォルフラムやラングトンやカウフマン(1076夜)はそれを計算によって見通した。第1にはいずれ均一になる秩序がある。第2には周期的になる。第3にはカオスが形成される。そして第4に複雑になる。
 生命と進化の秩序は第3のカオスの淵に誕生して、その後に第2世界の境界に浮かび上がってきた(ニック・レーン『生命の跳躍』1499夜、田中博『生命と複雑系』1617夜)。
 けれども食べて、出して、調子が悪ければ病院に行くというだけが、生活なのではなかった。個人の日々には代謝とともに、学習やコミュニケーションが求められる。子育てや老人介護もある。社会や組織はそういうことを見守るためにあり、仕事と収入を保証する。
 趣味や遊びも無視できない。ロジェ・カイヨワは「遊びは非対称を望む」とみなし(カイヨワ『斜線』899夜)、ピエール・ブルデューは「ハビトゥスは私たちの身体の内部に組みこまれた社会なのである」と言った(ブルデュー『資本主義のハビトゥス』1115夜)。
 それよりも農業や林業や中小企業が適切に活性していること、教育や医療が潤沢に機能しているかどうかということ、職能や文化がおもしろく享受できているかどうかといったことのほうが、GDPやGNPやGNIが上がることよりずっと大事だし、望ましい。けれども、これらの活性度はそういう大きな数字にはあらわれない。
 なぜ、こういうことが見えにくくなったのかといえば、われわれはいつのまにか決定論的で線形的な思考と結果に慣らされてしまい、全体や大枠の確率を多数決や評判で獲得するほうに加担するようになってしまったからだ。
 われわれを生んだ地球生命系は、その進化のすべてのプロセスにおいて、また多様に仕上がった植物・動物・バクテリア・ウイルスのしくみにおいて、ほとんど非決定論で、非線形的(ノンリニア)なプロセスをもってできあがってきた(蔵本由紀『非線形科学』1225夜)。ときにホロニックでさえあった(清水博『生命を捉えなおす』1060夜)。
 それゆえ、多くの少数生物や中間生物が地球のそこかしこで共生できるようになった。隙間が重要なのである。
 その長い歴史の中で動いていた複雑生命系のエンジンは、四則演算や適者生存で成り立ってはいない。むしろ遺伝子の複製ミスや「ゆらぎ」の発生や状態の「相転移」をいかして進むということを含んでいた。不安定や不確実は除去されるのではなく、つまりリスクは除去されるのではなく、その不確定な状況から次の生育や成長の芽を選んだのである。
 これを生物物理学では「自己組織化する」とも言ってきた(エリッヒ・ヤンツ『自己組織化する宇宙』1731夜、スチュアート・カウフマン『自己組織化と真価の論理』1076夜)。
 自己組織化のしくみが複雑系をつくったのである。複雑系は「複雑に込み入っている」(complicated)いるのではない。もともと「複雑さ」(complex)をもつシステム複合力やシステム重複力によって形成されてきたのだ(ジョン・キャスティ『複雑性とパラドックス』1066夜)。西山さんはそういう複雑系を新たな社会モデルとしなければならないと見た。とくに免疫ネットワークがもっているしくみに注目した。
 西山さんは本書の後半で、こうした免疫ネットワークのはたらきがすこぶるコンカレント・エンジニアリングになっていることに注目し、その特徴を5つにわたって解説する。ここは読みどころだった。
 第1に、免疫系のプレイヤーはみごとなほどの共同作業をしている。社会組織に譬えていえばB細胞がラインを担い、T細胞がスタッフの役割をする。マクロファージは情報を集めて抗原に目印をつけ、T細胞のチームに情報提示する。
 第2に、免疫系は情報のトレーサビリティをもって情報管理している。MHC抗原をマーカーにして照合ミスがおこらないようにしているのである。輸血には血液型の適合が大事になるが、われわれには血液型だけでなく主要組織適合抗原というものがいろいろ潜在している。これが糖タンパク質でできている「MHC抗原」で(主要組織適合性複合体=Major Histocompatibility Complex)、ヒトのばあいはHLA抗原(ヒト白血球抗原)という。臓器移植などのばあいはこのMHCあるいはHLAの「型」が合わなければ手術ができない。
 実はわれわれの細胞はすべてこのMHC抗原というマーカーをもっている。これが生物的な「自己」の正体である。自己マーカーなのである。その「自己」を、免疫系は病原体の侵入という「非自己の介入」をきっかけに強化してきたのだった。驚くべきしくみだ。
 第3に、免疫系はつねに学習している。よくわかっているのは胸腺でT細胞が最初の徹底教育を受けていることで、幹細胞からT細胞が分化するのは、この教育と学習によっている。
 胸腺では1個の幹細胞が分裂と増殖をくりかえして、たくさんの細胞になっていく。同じ細胞がふえるのではない。遺伝子をばらばらにして、つなぎなおして、それぞれが異なった遺伝子構成の細胞に育っていく。これがT細胞となってのちに活躍するのだが、ここで資格が問われ、ポジティブ選択とネガティブ選択がおこる。
 ポジティブ選択では、のちにT細胞がはたらくときにMHC分子とともに抗原を認識することができるかどうか、そういう学習がちゃんとできていたかがチェックされる。MHC拘束がかかったかどうかを資格審査されるのだ。センター試験とはずいぶんちがう。
 ネガティブ選択は「自己トレランス」を調べるもので、自己の成分の対応には寛容であるようになっているかをチェックする。侵入者(異物=抗原)を見る目で自己を見てしまうようでは、自分を攻撃してしまうことになるからだ。そこでネガティブ選択によって、自己を構成する分子に反応してしまうT細胞は排除されるか、不活性化されるようにした。
 自己と非自己の区別がここでもトレーニングされるわけである。そうとうにきつい選択だ。それゆえポジティブ選択とネガティブ選択の二つに合格するT細胞は10パーセントに満たないようだが、それでも1個の幹細胞からすれば100万倍ほどになっている。こうして免疫細胞はその後も学習記憶を発揮する。
 第4に、免疫系では「外部情報が内部イメージになっている」。これは、B細胞やT細胞が抗原と闘っているときだけ機能するのではなく、ふだんからシミュレーションをしているということをあらわす。たんなる予行練習ではない。外部の情報を内部に反映させている。
 B細胞の構造には抗原を認識するパラトープという部位と、他のB細胞の抗体に認識されるイディオタイプという部位とがある。1個のB細胞には相手を認識するための機能だけではなく、他のB細胞に認識される機能があって、いわば双方向になっているのだ。
 B細胞が他のB細胞によって認識されるようになっていくということは、B細胞が外部の異物の内部イメージになっているということである。そういうB細胞がたくさんあるということは、外部の世界についてのイメージがたくさんあるということで、免疫系では外部多様性と内部イメージとが相互にネットワークされているということになる。
 第5に、免疫系は「情報の場」の上に成り立っている。この情報は主にサイトカインによっている。サイトカインはマクロファージが抗原の刺激で活性化されたり、T細胞がマクロファージの抗原情報を認識したりすると、インターロイキン、インターフェロン、TNF(腫瘍壊死因子)などの情報分子として放出される。たとえばT細胞が出したインターロイキンはB細胞にはたらいて、抗体をつくりだすシグナルの役割をはたす。サイトカインはいずれも状況に応じてその増減や抑制をされるのだが、そこには「情報の場」が形成されているということなのである。
 もうひとつ、言っておかなくてはならないことがある。とても大事なことだ。
 免疫システムは非自己によって自己を形成するしくみではあるものの、その自己は「グローバル(普遍的)な自己」ではないということだ。個人によって異なる「免疫自己」が形成されるのである。だからこそスギ花粉でアレルギーがおこる個人もあれば、花粉症に平ちゃらな個人も出てくる。
 免疫の不都合というものがあるわけだ。それがアトピーや気管支喘息を促す。自己免疫疾患もおこるし、免疫不全もおこる。
 すなわち、免疫システムは生理的個性に応じて、それぞれの自己を形成し、防衛するわけだ。免疫システムは生体防御のアーキテクチャを用意はするが、他方では個々人の多様性をのこしたのである。この「それぞれの自己」があるということ、いささか難しい生理学や病理学の問題になるのだけれど、心しておきたい。