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松岡正剛の千夜千冊・1747夜

 松岡正剛の千夜千冊・1747夜

松村圭一郎

『うしろめたさの人類学』

URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1747.html

 政策や市場は明るい解決をめざしているのだが、いろいろなところに暗がりが見え隠れする。社会にも自分にも「ひずみ」がおこっているように感じる。何をしていても、なんとなく「もやもや」や「うしろめたさ」があとをひいているのは、そのせいかもしれない。

 われわれは交換する動物である。交換によって社会をつくり、市場をつくり、国家をつくり、家族を構成してきた。

 気持ちのよい本だった。エチオピアでの滞在とフィールドワークをもとに綴った。

 エチオピアの村ではコーヒーを飲むときに、きまって隣り近所の人を招くらしい。エチオピアはアラビカ種のモカの原産地で、有数のコーヒー産出国である。みんなもコーヒーが大好きだ。それなのに一人や家族ではめったに飲まない。そんなことをしたら「あそこは自分たちだけでこっそりコーヒーを飲んでいる」と陰口をたたかれる。

 なぜ、コーヒーを家族や一人で飲まないのか。

 けれども、そういう習慣は少なくなってしまった。なぜなのか。これも容易には説明がつかない。これまでの人類学はこういうことを解明してこなかったのである。マルセル・モース(1507夜)の贈与論やギフトの人類学だけでは、説明できない「何か」があるにちがいない。著者は「経済」と「非経済」の境界がどういうものかを考え、「関係」ということを考える。エチオピアをフィールドワークの対象に選んだのが、人類学の課題にとってよかったかもしれなかった。

 では、これらは「贈与」なのか。そうであるともいえるし、そうでないともいえる。「贈りもの」ともいえるが、「商品」ともいえるからだ。こうして著者は「援助」とはいったい何なのかを考える。

 とりあえず著者は、商品交換(=市場)、贈与(=社会)、再分配(=国家)の境界をゆるがしていくしかないと結論づけているけれど、境界を緩めるだけでは足りないようにも思う。そもそもの「収得」と「貸与」の価値観をゆるがせることも必要だろう。たとえばナタリー・サルトゥ=ラジュ(1542夜)の『借りの哲学』(太田出版)が提示してみせたような、「われわれは、最初から何かを借りて暮らしてきた」という視点の導入だ。