松岡正剛の千夜千冊・1788夜
エドウィン・C・クラップ
『天と王とシャーマン
天に思いを馳せる支配者たち』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1788.html
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最近、アメリカで「nones」(ノンズ)という言葉が動き出している。ミレニアルズ層を中心にバズっているようだが、その多くが無神論者や不可知論者たちで、その数は全米のカトリック人口に迫っているらしい。2021年には宗教社会学者ライアン・バージの“The Nones”という本が話題になった。
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「今こそ訊こうじゃないか。シャーマンに精霊を呼んでもらって道を尋ねようじゃないか。モンゴルの大地が大丈夫かどうか、借金や抑圧がなくなるかどうか、訊ねようじゃないか。泥棒は誰なのか、尋ねようじゃないか」。
モンゴルのヒップホッブグループ「Ice Top」(アイス・トップ)の《Am Asuuya》(2011)のリリック&ヴァースの一部だ。目の前のシャーマンに迫るような荒々しいヒップホッブで、こんな歌詞をシャウトするのは日本のラッパーにはいない。
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そんなこんなで(何が「そんなこんな」かはまことに無責任で漠然としているが)、ぼくは若いころからシャーマン(shaman)やシャーマニズム(shamanism)にひとかどの関心をもってきた。
街のシャーマンを観察しようというのではない。むしろ原始古代のシャーマニズム、あるいは地域的なシャーマニズムを知りたくなった。たとえば沖縄のユタとノロ、盲目の瞽女(ごぜ)、ヤマトトモモソヒメ、各地のメディシンマンが気になった。
そこでミルチア・エリアーデ(1002夜)の大著『シャーマニズム』(冬樹社→ちくま学芸文庫)をはじめ、ウノ・ハルヴァの『シャマニズム』(三省堂)、ヨアン・ルイスの『エクスタシーの人類学』(法政大学出版局)、カーメン・ブラッカーの『あずさ弓』(岩波現代選書)などを読み、佐々木宏幹の『シャーマニズムの世界』(弘文堂→講談社学術文庫)で、シャーマンにも脱魂型、予言者型、霊媒型、精霊制御型、見者型などがあることを知った、
ただ、これらの多くはたいてい「憑依」(独Besessenheit 英possession)やエクスタシー(ecstasy 恍惚)やヒプノティズム(hypbotism 催眠現象)を前提にしているシャーマニズム論で、宇宙観や世界観、シンボリック・ストラクチャーとしての建物や造作物、選択した神々のレキジット・バラエティ(少数多様性)についてはあまり着目していない。
正直にいうと、知り合いは多いのにぼくはヒーラーになりたがる連中にはあまり惹かれない。それよりも、かつての歴史的シャーマン文化がどんなシンポリズムや儀式や創作行為や建造物に向かったのか、そちらのほうにずっと注目してきた。なぜ原始古代社会はシャーマンを必要としたかということだ。けれども、そういう視点の本があまりなかったのである。それが本書に出会って喉を潤した。
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伝統的なシャーマンの多くに共通する特徴は、トランス(trance 恍惚・忘我)、エクスタシー(ecstacy 脱魂)、ポゼッション(possession 憑依・憑霊)、アルタード・ステート(altered state of consciousness:ASC 変性意識状態)を身近かにしていたということにある。日本では巫女(みこ)、巫覡(ふげき)、口寄せ、イタコなどと呼ばれる。男のばあいも女のばあいもある。ノロとユタは琉球王国時代からのシャーマン(神女)だ。
一部のシャーマンはナチュラル・ヒーラーで、巫医だった。つまりメディシンマン(呪医)だった。悪霊と闘い、異界を出入りし、疫病を退散させる。そんなふうに言うとそれって霊媒(medium,spirit medium)と同じだろうと思うかもしれないが、そうとはかぎらない。霊媒はシャーマンであろうが、シャーマンが霊媒であるとはかぎらない
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【おまけ・3】
近代以降のシャーマニズムの盛衰については、グローリア・フラハティが18世紀のエカチェリーナ女帝、ゲーテ、モーツァルトに照準を当てた『シャーマニズムの想像力』(工作舎)、ブラヴァツキーやクルックスの動向を追ったジャネット・オッペンハイムの『英国心霊主義の抬頭』(工作舎)、近代以降のシャーマニズム関係の図版を収録したミハイル・ホッパールの『シャーマニズムの世界』(青土社)が参考になる。
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