松岡正剛の千夜千冊・1569夜
紫式部『源氏物語・その1』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1569.html
〜
『源氏』は総じて、この「外れる」あるいは「逸れる」ということを宮廷内外の目をもって描いていく物語だと思います。紫式部の狙いも関心も、また藤原摂関政治に対する批判のあらわれ方も、その「外れる」「逸れる」の描写具合にありました。ぼくは、そう見ているのです。
グレン・グールド(980夜)がいみじくも喝破したように、比類のない芸術精度は「よく練られた逸脱」をもってしか表現できません。このグールドの芸術精度についての見方は、紫式部が桐壺の帝と光源氏の発端を「逸脱の様式」としてあらわした『源氏物語』にもあてはまります。
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つまり「いろごのみ」は、もともとはその人物の性的個人意識にもとづいたものではなかったのです。古代日本の神々に特有されているソフトパワーだったのです。それがしだいに宮廷社会のなかで宮人たちの個人意識に結び付いていった。それって藤原社会がそうさせていったからそうなったわけで、紫式部はそこを見抜いていたからこそ『源氏』のような物語が書けたのです。
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これは一個の文芸作品としてはとんでもないことで、シェイクスピア(600夜)だって近松(974夜)だって、幾つもの作品を並列させてやっと「なにもかも」に近づいたのに、式部はそれを長大な一作で11世紀にやってのけてしまったのです。
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なかでも六条御息所が一番だとおっしゃる。これはなかなかの卓見で、われわれ凡なる男からは、生霊(いきりょう)となって夕顔や葵の上をとり憑き死に到らしめた御息所を、『源氏』一番の女性とは言い難い。たいていは「業の深い女」だと見てしまう。けれども瀬戸内さんは、あの「とめどもない愛」と「あふれてやまない情熱」こそ、紫式部がつくりあげた「胸が熱くなるほどいとおしい女性」なのだと言うんですね。感心しました。
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これらは「美術としての源氏」というより、源氏というのはこういうものだということを、絵そのものとして把握できるようになっています。「吹き抜け屋台」という図法で描いているとか、顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)になっているとかだけではない。絵を見ていると、文章ではやってこないいろいろな情報がアルス・コンビナトリアをおこして伝わってくる。いわばバーバラ・スタフォード(1235夜)のイメージング・サイエンスのような見方ができるように描かれているんですね。
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巻3「空蝉」(うつせみ)で源氏と一夜の契りを交わした空蝉のその後は巻16「関屋」にとびますし、巻6「末摘花」(すえつむはな)の後日譚は巻15「蓬生」(よもぎう)を読むまではわからない。
しかし、ときどきとんでいたからといって、『源氏』の物語構造はゆるぎません。プロットはけっこう複雑ではあるけれど、かなりしっかりした構造です。
ぼくは長らくレヴィ=ストロース(317夜)が言うように「構造は関係である」と確信してきたのですが、『源氏』はまさに「物語=構造=関係」になっているんです。
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こうしてさしもの華やかさに彩られた六条院の邸宅も、死霊によって揺さぶられる屋敷と化していきます。六条院は増築を重ねて広大なものになったのですが、その「秋の町」の結構は実は六条御息所の邸宅を吸収したものでした。この土地はそういうゲニウス・ロキ(地霊)をもっていた。上田秋成(447夜)が『雨月』の「浅芽が宿」に換骨奪胎しています。
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紫式部『源氏物語・その1』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1569.html
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『源氏』は総じて、この「外れる」あるいは「逸れる」ということを宮廷内外の目をもって描いていく物語だと思います。紫式部の狙いも関心も、また藤原摂関政治に対する批判のあらわれ方も、その「外れる」「逸れる」の描写具合にありました。ぼくは、そう見ているのです。
グレン・グールド(980夜)がいみじくも喝破したように、比類のない芸術精度は「よく練られた逸脱」をもってしか表現できません。このグールドの芸術精度についての見方は、紫式部が桐壺の帝と光源氏の発端を「逸脱の様式」としてあらわした『源氏物語』にもあてはまります。
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つまり「いろごのみ」は、もともとはその人物の性的個人意識にもとづいたものではなかったのです。古代日本の神々に特有されているソフトパワーだったのです。それがしだいに宮廷社会のなかで宮人たちの個人意識に結び付いていった。それって藤原社会がそうさせていったからそうなったわけで、紫式部はそこを見抜いていたからこそ『源氏』のような物語が書けたのです。
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これは一個の文芸作品としてはとんでもないことで、シェイクスピア(600夜)だって近松(974夜)だって、幾つもの作品を並列させてやっと「なにもかも」に近づいたのに、式部はそれを長大な一作で11世紀にやってのけてしまったのです。
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なかでも六条御息所が一番だとおっしゃる。これはなかなかの卓見で、われわれ凡なる男からは、生霊(いきりょう)となって夕顔や葵の上をとり憑き死に到らしめた御息所を、『源氏』一番の女性とは言い難い。たいていは「業の深い女」だと見てしまう。けれども瀬戸内さんは、あの「とめどもない愛」と「あふれてやまない情熱」こそ、紫式部がつくりあげた「胸が熱くなるほどいとおしい女性」なのだと言うんですね。感心しました。
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これらは「美術としての源氏」というより、源氏というのはこういうものだということを、絵そのものとして把握できるようになっています。「吹き抜け屋台」という図法で描いているとか、顔は「引目鉤鼻」(ひきめかぎばな)になっているとかだけではない。絵を見ていると、文章ではやってこないいろいろな情報がアルス・コンビナトリアをおこして伝わってくる。いわばバーバラ・スタフォード(1235夜)のイメージング・サイエンスのような見方ができるように描かれているんですね。
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巻3「空蝉」(うつせみ)で源氏と一夜の契りを交わした空蝉のその後は巻16「関屋」にとびますし、巻6「末摘花」(すえつむはな)の後日譚は巻15「蓬生」(よもぎう)を読むまではわからない。
しかし、ときどきとんでいたからといって、『源氏』の物語構造はゆるぎません。プロットはけっこう複雑ではあるけれど、かなりしっかりした構造です。
ぼくは長らくレヴィ=ストロース(317夜)が言うように「構造は関係である」と確信してきたのですが、『源氏』はまさに「物語=構造=関係」になっているんです。
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こうしてさしもの華やかさに彩られた六条院の邸宅も、死霊によって揺さぶられる屋敷と化していきます。六条院は増築を重ねて広大なものになったのですが、その「秋の町」の結構は実は六条御息所の邸宅を吸収したものでした。この土地はそういうゲニウス・ロキ(地霊)をもっていた。上田秋成(447夜)が『雨月』の「浅芽が宿」に換骨奪胎しています。
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