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松岡正剛の千夜千冊・975夜

松岡正剛の千夜千冊・975夜

井上ひさし『東京セブンローズ』

URL>  https://1000ya.isis.ne.jp/0975.html

 こんなことを言ったのには、むろん、だいそれた理由がある。それを書くのが今夜のぼくの雑文の値打ちなのだが、いまや井上ひさしだけが、「日本語の問題」を、最高の日本語で、つねに適切な主題と意匠と惑溺するような感覚と起爆するような批評をもって、痛快きわまりない物語にできる唯一人の作家だということなのだ。

 ちなみに、『日本人のへそ』の地口とキャラクタリゼーションの妙法は、空海の『三教指帰』(750夜)によるコンフューシスト亀毛先生、タオイスト虚亡隠士、ブディスト仮名乞児、また『秘蔵宝鑰』で憂国公子と玄関法師を登場させたことに匹敵するというか、それを知ったとき以来の衝撃だったといってよい。つまり1000年来の笑撃なのだ。

 突然、話を変えるようだが、日本には七五調という言葉のリズムがある。

 ようするに明覚、心蓮、浄厳、契沖で時代は止まったままなのだ。

 そこで凡百の学者をおさえての、井上ひさしの出番となる。これが傑作名著『私家版日本語文法』(新潮文庫)。

 つまり井上はたんなる異能の作家でもなく、どこにでもあるような劇団の主宰者でもなくて、日本語という生きた組織文化そのものを体現するすべての動向を引き受けた革命者だったのだ。これは井上ひさしが、「国語はメディエーションである」という現況を一歩も譲ることなく生き続けてきたことを証すものだった。うーん、凄い。

 むろん井上には国語論についての研究著書があるわけではない(ひょっとしたらあったりして)。けれども、芝居『国語元年』や小説『東京セブンローズ』は、また多くの日本語をめぐるエッセイの数々は、これらの論文に匹敵し、それを上回る成果だったのである。研究者たちは漱石や万年や直哉や時枝を論ずるように、『日本人のへそ』や『黙阿弥オペラ』を論じてもよかったはずなのだ。

 日本語の本来の開発は紀貫之や仙覚によってもたらされ、国語教育のマスタープランは契沖や近松や京伝が提出し、現代日本語の革新はどうみたって秋田実と阿久悠と桑田佳祐によって進められていったのである。

井上さん、一緒に圖書街をつくりませうね。レイモン・クノーの文躰練習(138夜)の日本版をお願ひしますね。困つたときの、こまつ座だのみ、胃のうえ良ければ、意のうえ久し。


映像・原作:井上ひさし