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松岡正剛の千夜千冊・1041夜

松岡正剛の千夜千冊・1041夜
久松真一
『東洋的無』
 最初に言っておくが、久松真一の哲学をどう読むかということだけなら、すでに滝沢克巳がその最も重要なスタディをおえている。付け加えることはない。
 また、久松真一の茶道をどう見るか ( 262夜 ) というなら、その先駆的だった「侘び」の思想 ( 728夜 ) はその後の茶道論のなかでほとんど咀嚼されてきた。岡倉天心の『茶の本』 ( 75夜 ) があり、次に久松真一の『茶の精神』があったのである。それはいまや茶の心の根底になっているのだから、これも特段に付け加えることはない。
 もっとわかりやすくいうのなら、久松の「無相の自己」(formless self)の説明こそは、近代的自己像と闘いつづけてきた西の哲学の最高峰の成果に、いまなおクサビを打ちこみうる数少ない「東の溌無」なのである。今夜はそういうつもりで久松をとりあげた。
 久松のいう東洋無は、徹底して西洋の虚無の限界 ( 878夜 ) に挑んだものである。
 そのため第4段階では、無にこそ価値があることを説く。人間はそもそも要求によって生きているのだから、その要求に価値があるかどうかは、いったん無を経験する必要がある。無を経験し、無を通過してみれば、本来の価値がどういうものかが見えてくる。このとき失望や落胆や絶望があるかもしれない。その危険がないとはいえない。けれどもむしろ失望や絶望が擦過するほうが、本当の価値が見えてくる。「絶望した私が私自身を救う」ということがある。
 久松の「東洋無」は7つの無から成り立っている。無法・無雑・無位・無心・無底・無礙・無動である。いずれも久松美学とも結びついている。
 ちょっとだけ解説するが、こういうことである。
 無法は「不均斉」への流れをともなう。無雑は「簡素」への転出である。そのためには自身の粗相を詫びる気持ちがなければならない。侘び茶につながる東洋無であろう。無位は立場にこだわらない意識のことをいう。たとえば「枯れる」という心境をいう。けれども枯れるには、他者がその枯れから潤いを感じなければならない。
 無底は禅がよくつかう用語だが、「無一物中無尽蔵」という言葉に暗示されているように、底抜けをいう。自己の底を抜き、茶碗の底を感じなくなることが無底なのである。能ではこれを「幽玄」にあてはめる ( 118夜 ) 。だから無底のボトルにはなんでも入る。
 無礙は華厳にいう「融通無礙」のこと ( 681夜 ) で、互いに動きあい、反映しあう観点をもつことをいう。コレスポンダンスであるのだが、そのコレポンのなかに自分も入ってしまっている。