松岡正剛の千夜千冊・1433夜
高木仁三郎
『原発事故はなぜくりかえすのか』
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頑固で、勇気があって、誠実な人だった。
しかし激痛と闘病のなかでJCOの臨界事故を知り、
本書を遺して、無念のまま他界した。
もしフクシマのことを知ったら、
どうなっていたことか。
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高木仁三郎が日本原子力事業という会社に入ったのは、東大理学部化学科卒業直後の1961年である。1955年に原子力基本法ができて、その翌年から日本の原子力研究が少しずつ本格化すると、三井(東芝)・三菱・日立・富士・住友などによる原子力産業グループが形成されるのだが、高木が入ったのはその三井系の会社だった。
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1999年9月30日の東海村JCOでおきた臨界事故は、病身の高木仁三郎を激怒させ、悲しみの深淵に突き落とした。核燃料加工のプロセスで本来の手順を逸脱してウラン235の高濃度溶液が一つの容器に集中し、そのため核分裂反応が持続したまま中性子がこの世に放出された事故だった。
80日後、現場作業員の大内久氏が放射線急性障害で死亡し、ついで二人目の篠原理人氏が大量被爆で死亡した。日本の原子力開発がもたらした初めての死亡事故である。これで日本人は三たび、青い光の告発を受けることになってしまった。
青い光というのは、原子炉で核分裂反応の高いエネルギーをもった粒子が水の中を通過するときに発する特殊な光のことである。核爆発や核分裂の現象に特有の光で、科学用語では「チェレンコフの光」という。日本人はこの青い光を、第1には1945年8月6日に広島で、第2には8月9日の長崎で、そしてそれから54年たった東海村で見ることになった。そのほか1954年3月1日に、ビキニ環礁で被爆して死亡した第五福竜丸の久保山愛吉氏も、チェレンコフの光から派生した光を見たかもしれない。
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日本だけではない。アメリカでもけっこう希薄だった。原発の安全性については1975年に発表されたラスムッセン報告というものがあって、原発事故を確率論的に評価して、「メルトダウンといった大事故がおきる可能性は10のマイナス5乗から6乗だ」と発表し、「ヤンキースタジアムに隕石が落ちるようなもの」と付け加えたのである。ところがこの報告のあとスリーマイル島の原発事故がおこった。
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1989年の『巨大事故の時代』(弘文堂)という本がある。そこで高木さんは事故の原因を「重畳型、共倒れ型、将棋倒し型」の3つに分けた。
重畳型は、単独ではそれほど深刻ではないはずの故障やミスが、“偶然”に重なりあって大事故になるというケースで、ニューデリーの南200キロのボパールでおきた農薬工場の例をあげている。
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共倒れ型は、1975年にアメリカのブラウンズフェリー1号炉の事故に見てとれる。原子炉建屋の中の空気の流れを調べようとして調査作業員がローソクを灯したのだが、それが火災につながり、ケーブルが燃え、制御装置と安全装置を使用不能状態にした。多重に防衛されていたはずの装置が、たった一本のローソクで共倒れになってしまったのだ。
将棋倒し型は、1986年のチェルノブイリの大事故に顕著だった。すでに詳しい解説書がいくつも公開されているので、いまさら説明するまでもないだろうが、高木さんの闘いはここから始まっているので、以下、概略だけを書いておく。
詳しいことは高木仁三郎講義録『反原発出前します』(七つ森書館 1993)などを読んでいただきたい。
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それで高木さんは、このようなプルトニウムを活用しようとする社会そのものが病んでいるのではないかと告発しつづけたのだった。これらの技術を活用する社会はアクティブすぎると言ったのだ。「原発はアクティヴィズムの極致の技術である」とも書いている。そういうアクティヴィズムよりも、むしろパッシブな社会に転換したほうがいい。私はパッシヴィズムに向かいたい。そう、断言したのである。
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そこを高木さんは日本を「イントリンシックな社会」に戻したほうがいいとも言っている。イントリンシックとは「本来の社会」ということである。ぼくもずっとそう思ってきた。日本の本来と将来をつなげることが、日本という方法の課題なのであると。
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