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松岡正剛の千夜千冊・1568夜

松岡正剛の千夜千冊・1568夜
オノレ・ド・バルザック『セラフィタ』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1568.html

 「文学は活字鋳造から始まる」というこの商業文化的で業界っぽくって、かつ書物の歴史や文学的伝統からすればたいそう本質的な判断は、いかにもバルザック独特のものだ。のちにピエール・ブルデュー(1115夜)が、資本主義が出版と印刷を忘れたとき、社会は文化を失うと言っている。バルザックはグローバル資本主義の現在にこそ必要なのである。

 これが有名な「人物再登場法」というもので、それまで誰も試みなかった方法だった。一回出てきた同一人物が、その後も別の作品に何度も出てくるようにした。バルザックはこの手法をその後の半分以上の作品に貫いた。
 そのうち、このように連鎖する作品群の総体まるごとの全容を、なんと「人間喜劇」(La Comédie Humaine)と名付けることにした。
 この命名は、あきらかにダンテ・アリギエリ(913夜)の『神曲』(La Divina Commedia)に準(なぞら)えたもので、たいそう大胆で野心的なネーミングだ。いわばダンテの<神曲>に対するにバルザックの<人曲>なのである。やりすぎくらいのやりすぎだ。
 けれども、こうしてざっと100冊近い本が「人間喜劇」として複合的につながっていったのである。驚くべき構想と蕩尽を怖れぬ野心だった。

 『ルイ・ランベール』はバルザックを読むには必需品である。ランベールと私が遠足に行く場面があるのだが、ある丘に着いたときランベールが「なんだ、ここならぼくは夕べ夢で見たよ」と言う。バルザック流のカムパネルラとジョバンニなのだ。
 これを機会に二人が「内なる存在」と「肉体の現実」の分離について語りあうのは、そのまま『谷間の百合』にも『セラフィタ』にもつながっていく。