スキップしてメイン コンテンツに移動
松岡正剛の千夜千冊・1595夜
ニコラス・ハンフリー『ソウルダスト』
〜
ハンフリーは類人猿からヒトへの飛躍は知能の発達ではなく、「自己意識の芽生え」によっているのではないか、すなわち「自分がどう感じているかを意識する能力」が芽生え、これが知能のバネになったのではないかと提案した。ヒトザルからヒトになる過程のどこかで、自分の心を覗きこむ「内なる目」が形成されたのではないかというのだ。
〜
そうであるのなら、われわれは何か新しい能力を獲得した代償に、それまでの古い能力を喪失するのではないか。
〜
私は自分が目にしているものにうっとりしている。
これは恋する者の洞察、あるいは恋する者の盲目だ。
――ヴィンセント・ファン・ゴッホ
ずっと以前から、哲学者や作家や詩人が次のようなことを書いているのに、心理学者や脳科学者たちはこれらにうまく応答できなかったことを気に病んできた。
マルセル・プルースト(935夜)はこう書いた、「天からロープが下ろされ、非存在の深淵から私を引き上げる」。ポール・ヴァレリー(12夜)はこうだ、「私が目覚めるのではなく、目覚めがあるというべきだ。なぜなら私は結果であり、結末にすぎないのだ」。
ヨハン・フィヒテ(390夜)は直截に「自意識をもつ前の私は何だったのか」と問い、「この問いを発する前の私は存在しなかった」と書いた。『概念記法』のゴットロープ・フレーゲはもうちょっと突っ込んで「私の経験は私の内なる経験者なしではありえない。内なる世界は、その内なる世界の主人たる存在を前提とする」と推理した。誰よりも自己意識のあやしさについて端的だったのは、かのミラン・クンデラ(360夜)だ。クンデラはこう言った、「我思うゆえに我ありじゃない。我感じるゆえに我ありだ」。
〜