松岡正剛の千夜千冊・1599夜
近藤信義『枕詞論』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1599.html
〜
巷間、百人一首が少しずつ復活しているらしい。子供のころから親しんできた者の一人としてちょっと悦ばしい。
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連歌と茶の湯は、利休以前の武野紹鴎(たけの・じょうおう)が連歌師だったことにも象徴されているように、ほぼつながった遊芸だったのだ。百人一首はその派生力として仕掛けられたのだ。
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この「類」(たぐい)は何かというと、社会学や数理統計学や認知学でいうような、グループ(グルーピングする)、クラス(クラシファイする)、インスタンス(例示する)というものではない。日本人が好きな「類」は「分類してナンボ」なのではない。そうではなくて、まさに「類によって類を見る」ために「類想・類景・類物」に長じようとした。区別や差別をするために「類」を分けるのではなく、何かと何かを「つなげる」ために類を見た。本気で「類似による景色」を求めたのだ。
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それには「類としての見立て」に深みや広がりがなければならない。われわれの文化が「見立て」や「本歌どり」に熱心だったのはそのせいだ。それを作庭から屏風絵まで、茶の湯から浮世絵まで、俳諧から歌舞伎まで、陶芸から漆芸まで広げ、それらが職人の仕事のあらわすところを含めて類から類を呼ぶようにした。分類ではなく分出をやってのけたのである。
そこに用意されたのが花鳥風月や雪月花のリプレゼンテーション・システムであり、「座」や「興」の会合(えごう)のしくみであり、「真行草」のインターフェースであり、そして枕詞や歌枕や縁語というものだった。
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かつて折口信夫(143夜)は枕詞のことを「らいふ・いんできす」と言った。枕詞はライフ・インデックスだというのだ。ずばり「呪詞の生命標」だとも書いている。
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近藤信義『枕詞論』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/1599.html
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巷間、百人一首が少しずつ復活しているらしい。子供のころから親しんできた者の一人としてちょっと悦ばしい。
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連歌と茶の湯は、利休以前の武野紹鴎(たけの・じょうおう)が連歌師だったことにも象徴されているように、ほぼつながった遊芸だったのだ。百人一首はその派生力として仕掛けられたのだ。
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この「類」(たぐい)は何かというと、社会学や数理統計学や認知学でいうような、グループ(グルーピングする)、クラス(クラシファイする)、インスタンス(例示する)というものではない。日本人が好きな「類」は「分類してナンボ」なのではない。そうではなくて、まさに「類によって類を見る」ために「類想・類景・類物」に長じようとした。区別や差別をするために「類」を分けるのではなく、何かと何かを「つなげる」ために類を見た。本気で「類似による景色」を求めたのだ。
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それには「類としての見立て」に深みや広がりがなければならない。われわれの文化が「見立て」や「本歌どり」に熱心だったのはそのせいだ。それを作庭から屏風絵まで、茶の湯から浮世絵まで、俳諧から歌舞伎まで、陶芸から漆芸まで広げ、それらが職人の仕事のあらわすところを含めて類から類を呼ぶようにした。分類ではなく分出をやってのけたのである。
そこに用意されたのが花鳥風月や雪月花のリプレゼンテーション・システムであり、「座」や「興」の会合(えごう)のしくみであり、「真行草」のインターフェースであり、そして枕詞や歌枕や縁語というものだった。
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かつて折口信夫(143夜)は枕詞のことを「らいふ・いんできす」と言った。枕詞はライフ・インデックスだというのだ。ずばり「呪詞の生命標」だとも書いている。
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