松岡正剛の千夜千冊・262夜
青山二郎
『眼の哲学・利休伝ノート』
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そもそも青山二郎は陶器を見ていない。見るのではない。観じるのである。何を観じるかというと、陶器の正体を観じる。「見るとは、見ることに堪えることである」とも言うし、「美は見、魂は聞き、不徳は語る」とも言った。
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そういう青山がときに光を洩らすようにつぶやく文句は、まことに極上。とうてい文筆家はかなわない。そのひとつに、こんな名文句がある。「眼に見える言葉が書ならば、手に抱ける言葉が茶碗なのである」。
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青山の文章は『青山二郎文集』に尽きているのかとおもったら、「利休伝ノート」という未発表のものがあった。これが本書には収録されている。おもしろい。
利休 ( 934夜 ) は誰にも理解されなかったというのが、青山の基本的な視点である。また、利休の根本思想には茶道も礼儀もなく、その“なさかげん”が茶碗に残ったというふうに見た。鑑定を強いられ、それに我慢がならなくなったという見方もする。
まさに青山らしい。最もおもしろいのは利休をトルストイ ( 580夜 ) に見立てたところである。
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