松岡正剛の千夜千冊・294夜
佐治芳彦
『謎の神代文字』
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こうして長らく、偽史伝を扱うこと自体がタブー視されてしまったのである。ぼくは偽書や偽史もまたひとつの史書史料であるとおもっているけれど、学界はそういうことを「でっちあげ」として絶対に許さなくなっていった。
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で、本書のことになる。
この本は日本の古史古伝に関しての案内である。むろん著者の言いたい仮説は書いてあり、本書にとりあげた古史古伝をいずれも認めたいという切実なものなのだが、その言い分をむりやり通すという態度は見せていない。
したがって本書は比較的よくできた日本の偽史偽伝のガイドブックとして読める。偽史や偽書というものが日本でどのように扱われてきたかについてのサポート・レポートにもなっている。
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ここで古史古伝というのは、“超古代史研究家”の吾郷清彦による定義づけによめもので、本書もそれが基本的に援用されている。それによると、次のようになっている。
『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』が古典三書、それに『先代旧事本紀』(旧事紀)を加えて古典四書、別して「竹内文書」「九鬼文書」「宮下文書」を古史三書とし、さらに別の範疇として「上記」(うえつふみ)、「秀真伝」(ほつまつたえ)、「三笠紀」を古伝三書というらしい。
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たとえば「お筆先」をどう見るか。新井白石 ( 162夜 ) や頼山陽 ( 319夜 ) や徳富蘇峰の記述をどう見るか。秩父困民党蜂起や東京ローズや松川事件をめぐる記述をどう見るか。もっとグローバルにいえば、マタイ伝やカバラ文献をどう見るか。アヘン戦争やイラン・コントラ問題や天安門事件をどう見るか。そういうことにかかわってくる。
それらはある意味ではそれなりの編集が時間をかけてされてきたことによって、歴史の確固たる文献になってきた。あるいは教典になってきた。あるいは、なりつつある。
けれども、ここにあがった古史古伝の多くは、未整理であり、他人の手も時間の手もほとんど加わっていない。
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…なお、明治期に日本の偽史がさかんに書かれた背景と事情については、長山靖生の『偽史冒険世界』( 511夜 ) というすこぶる興味深い本があるので、そちらを覗かれたい。
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