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松岡正剛の千夜千冊・405夜

松岡正剛の千夜千冊・405夜
中江兆民
『一年有半・続一年有半』
 こういう本を読まないで、それまで自分はそこそこの日本人だったと思ってきたことを反省したことがある。
 "東洋の蘆騒"こと中江兆民という名前は日本人ならだいたいが知っている。蘆騒はルソー ( 663夜 ) のことである。日本開明期のフランス学派の泰斗、ルソー『民約論』の翻訳者、共和主義の主唱者、噂にまでなった奇癖の持ち主、仏学塾の塾頭、ベストセラー『三酔人経論問答』の著者、若いころからの三味線や義太夫への傾倒、幸徳秋水の師匠であったこと、大阪第4区で立候補して衆議院議員になったこと等々、こういった兆民像はよく知られている。
 兆民が3度にわたって浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』を見に行った話は夙に有名で、遺稿『一年有半』に出てくる。
 が、よく読むと、兆民はその前後に何度も文楽座や明楽座を訪れて、越路大夫だけではなく大隅太夫や津太夫の義太夫にも聞き惚れている。
 大阪に着いた兆民の喉から出血があったのが明治34年3月22日だった。喉頭癌の診断をうけ「余命は一年有半」と宣告されたのが4月中旬、気管切開の手術は5月26日である。小塚旅館で療養に入り、6月には一念発起して『一年有半』の執筆にとりかかっている。
 のちに露伴 ( 983夜 )・四迷 ( 206夜 )・漱石 ( 583夜 ) そのほかの明治文人たちの多くが、挙って義太夫・常磐津・小唄などに耽ることになるのだが、その先例は兆民こそが拓いたものだった。が、政治と哲学と義太夫を一緒に語るという芸当は兆民をおいては、ずっとのちの九鬼周造 ( 689夜 ) にはその趣向と道楽の哲学があるものの、ほかには見当たらない。
 どうみても兆民の義太夫への心酔は尋常ではない。
 そこで鷲見さんがいう越路大夫の聞き方のことであるが、『一年有半』の最初には「越路太夫の合邦ケ辻呼物にて、その音声の玲瓏、曲調の優美、桐竹、吉田の人形操使の巧なる、遠く余が十数年前に聞きし所に勝ること万々」ということで、たしかに越路太夫を聞いている。二代竹本越路太夫である。
 おそらく、この「判釈」をほぼまちがいなく説明できるならば、明治文化がもたらした日本人が抱えた問題の本質、もっと端的にいうのなら日本人は何を見るべきだったのかという問題の一端がほぐれてくるのではないかとおもわれる。が、それができる人材は、いまはまったくいないだろうとしか思えない。
 兆民が何を判釈しているかというと、「余近代において非凡人を精選して、三十一人を得たり」というのである。これがすこぶる傑作なのだ。
 以下の31人である。
 兆民が並べた順に、綴りもそのまま書くと、曰く、藤田東湖、猫八、紅勘、坂本龍馬、柳橋、竹本春太夫、橋本左内、豊沢団平、大久保利通、杵屋六翁、北里柴三郎、桃川如燕、陣幕久五郎、梅ケ谷藤太郎、勝安房 ( 338夜 )、円朝 ( 787夜 )、伯円、西郷隆盛 ( 250夜, 1167夜 ) 、和楓、林中、岩崎弥太郎、福沢、越路太夫、大隅太夫、市川団洲、村瀬秀甫、九女八、星亨、大村益次郎、雨宮敬次郎、古川市兵衛、というふうになる。
 実に奇っ怪な顔触れである。