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松岡正剛の千夜千冊・419夜

松岡正剛の千夜千冊・419夜
清少納言
『枕草子』
 春は曙、夏は夜、秋は夕暮れ、冬はつとめて。この言いぶんである。この言いなりだ。海は琵琶湖に、与謝に、河内がいいでしょう。草花は撫子(なでしこ)、女郎花(おみなえし)、桔梗、朝顔、刈萱(かるかや)、菊、壷すみれ。けれども萩はといえば、朝露に濡れていてほしい。御陵といえば、それはうぐひす、かしはぎ、雨の帝のみささぎだ。そして峰なら摂津はゆづる葉の峰、山城が阿弥陀の峰、播磨の弥高の峰である。
 
こう、断定されると逃げ場がない。けれども、追いこんでいるようでいて、さっと引く。ヒット・アンド・アウェイなのである。美の遊撃であって、知の遊動なのだ。
その御局の簀子の高欄には青い大きな瓶が置いてあって、そこにみごとな桜の五尺におよぶ枝を活けているから、まさに咲きこぼれているようなのですと、急に詳しく細部に入っていく。さらにそのまま、その桜が咲きこぼれているところへ、ある日、大納言さまが桜襲(さくらがさね)の直衣(なおし)など着てというふうに、…
 リストのあげかた、それを答える手順、順序、序破急、守破離が巧みなのである。わかりやすい例でいえば、猫は背中全体が黒くて腹が真っ白なのがいいと書いたあと、雑色や随身はちょっと痩せて細身なのがとてもよくて、あまり太ると眠たくていけないなどと続け、小舎人童(ことねりわらわ)は髪の先がさっぱり落ち細って、やや青みがかっていると色っぽい、などと付け加えるのだ。こんなコメンテーターはめったにいない。
知たり顔に自分だけが知っている知識の問答をしているのではない。ここにはピエール・ブルデューの「ハビトゥス」こそが躍っている ( 1115夜 ) のである。ハビトゥスとは人々が習慣的に知っているはずの趣味・趣向のことをいうのだが、清少納言はその扱いを徹底して動かした。そのうえで趣味趣向を自分のハンドリングのなかでのみ動けるようにした。
そういう清少納言の感覚と美意識が、さらに研ぎすまされるのは「あてなるもの」や「うつくしきもの」によせる気持ちを披露するときである。「あてなるもの」とは上品な感じがするものといった意味だが、さすがに目が透明になっている。何をあげたかというと、薄紫色の衵(あこめ)に白がさねの汗衫(かざみ)、カルガモの卵、水晶の数珠、藤の花、梅に雪が降りかかっている風情、小さな童子がいちごなどを食べている様子、というものだ。完璧だ。「いみじううつくしきちごの、いちごなど食ひたる」といった、チゴ・イチゴの語調の連動もある。

附記‖…「香炉峰の雪」をめぐる中宮定子とのやりとりが有名だが、藤原公任 ( 158夜 ) との言葉の贈答も雅致がある。…