松岡正剛の千夜千冊・666夜
ウォルター・オング
『声の文化と文字の文化』
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かつては「話し言葉」だけが世界を占めていた。やがて文字を発明した部族や民族が各地に出現した。その文字はたちまち横に伝播していった。けれども、その文字の大半は声をたてて読む文字だった。
そこは音読社会だったのである。そこには「文字の声」が溢れていた。
それがいつのまにか「書き言葉」が社会文化の主流を占めるようになった。黙読社会の登場である。
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言葉を視覚化することは、情報を一語一語の単位で切断することも便利にさせた。( 504夜 )
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これに対して声や音というものは、その情報が口から発せられるたびに、前へ前へと進もうとする。それゆえ発話を聞いている者は、つねに語られていく最前線の一点に集中することになる。そのため語り部がそのような技能を有していたのだが ( 307夜 )、会話の途中の言葉にはよりいっそう記憶に残りやすい言葉や詩句をしこませておく必要があった。
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しかし、そもそも言葉には「声」がつきまとっていた ( 612夜 )。文字にも「音」がついていた。言葉は声を内在させているというべきなのである。空海 ( 750夜 ) がそのことを何度も強調したように。
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原題にあるように「声の文化」とはオラリティ、「文字の文化」とはリテラシーのことをいう。オングはその両者の関係に執拗な関心 ( 213夜 ) を向けてきた。
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