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松岡正剛の千夜千冊・750夜

松岡正剛の千夜千冊・750夜
空海
『三教指帰・性霊集』
 そんなことがあって1984年に『空海の夢』(春秋社)を書いた。空海については20代に『声字実相義』を読んだ ( 544夜 ) のがきっかけでいろいろ読んではきたが、司馬遼太郎が『空海の風景』を発表したあとだったこと、かつ、ぼく自身も工作舎を離れて最初に書きおろす本だということもあって、かなり入念な構想を練った。叙述の仕方も章立てによって少しずつ変えた。仕上がりはいまでもけっこう気にいっている。
 砂漠型の行動思想では坐ってなどいられない。オアシスを求めて右へ行くか左へ行くか、つねに決断が迫られる。まちがった判断をすれば、それはそのまま死につながる。ユダヤやアラブやイスラム諸国の底辺には、いまなおこの二者択一的な行動選択がある。
 他方、森林では雨季が多く、こういうときに焦って動いては事態の成り行きが眺められない。むしろじっとしているほうがよい。また森林では火の意味がきわめて大きい。そこで森林的東洋では(ガンジスの森がその代表のひとつだが)、「坐」の思想のほうが胚胎し、時間をかける瞑想が発達した。
 その多神多仏型の思想が流れ流れて分化して、結局は江戸の仏教学者の富永仲基の言い草によれば、インドは「幻」、中国は「文」、日本は「絞」というような仏教思想の特質が流露していった。密教はこのヒンドゥ・ブディズムが分化していく途中に南インドから中国で発酵し、さらに日本で結晶したものである。
 では、その意識がどこから発生したのかといえば ( 207夜 )、当時は脳のことまでは理解が及ばなかったものの、生命現象の一部が意識になったとは理解された。プラトンは胆汁さえ思考の要因であると考えたし、ヨーガでは体の各部にチャクラというものがあると考えた。
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 けれども、日々の煩悩が出入りする「我」についても放ってはおけない。なにしろ自我意識なんてなかなかなくならない。ジコ虫とはそういうものである。そこで、そういう面倒な「我」をこそもう少し解明したい ( 647夜 )という一派もあって、これが「小乗仏教」を形成していった。
 以上は、わかりやすくいえば「意識は進化するのか」「意識は高次化しうるか」( 366夜 ) という流れで仏教を捉えた見方になる。実は空海はそこに賭けていく。