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松岡正剛の千夜千冊・805夜

松岡正剛の千夜千冊・805夜
デイヴィッド・ピート
『シンクロニシティ』
 C・P・スノーがこう言ったそうだ。「熱力学第二法則 ( 368夜 ) を知らないなんて、シェイクスピアの作品をひとつも読んだことがないのと同じようなものだ」。それでいうなら、シンクロニシティを知らないなんて、フェリーニの映画を一度も見たことがないようなものである。
 われわれにはいつも付き合っている現象がある。それはジェネレーション(発生)( 217夜 ) とアニメーション(活性)( 742夜 ) だ。これは自然界にも人間界にもペット界でもおこっている。けれどもわれわれはついつい大数の法則というものに目暗らまされて、すべての現象を平均的な尺度の中に埋没させて見るという傾向ももっている。そこで科学者や小説家やお笑い芸人が、その埋没した現象から「コレとアレとはひょっとして関係しているのじゃないか」と言い出して(最近のぼくはオセロの二人が言い出すことに感心しているが)、なるほどそうかと膝を打たせてくれる。
 これでとりあえずは、暗示的な意味関連がつく。しかし、その関連にはなんらの因果関係がないことが多い ( 541夜 ) 。素人目には「なるほど!」と思えても、笑えるものとはなっても、科学になるとはかぎらない ( 476夜 ) 。
 しかし、この相互の「しめだし」には何ら互いに力がはたらいたわけではなくて、もしこれを説明したいなら、素粒子の全体群の運動の非対称性がもたらしたパターンだとするしかないだろうと言った。ということは、このパウリの排他原理こそが自然界の多様な化学組織をつくっている原理だということで、これがなければ宇宙はのっぺらぼうなものになっていたということになる。
 このパウリの推理に関心をもったのがカール・ユングだった。ユングは物質の世界にそのような隠れた秩序を生成する力 ( 521夜 ) がひそんでいるのなら、心理の世界にもそのようなことがおこっているにちがいないと考えて、パウリと共同研究に乗り出し、1952年に『自然現象と心の構造』を共同出版した。
 そこに述べられていた主題がシンクロニシティ(synchronicity)なのである。ただし、パウリがもっぱら物質現象におけるシンクロニシティの発見を期待しつづけたのに対し、ユングは物理と心理のあいだにおこるシンクロニシティにその後も関心をもった。
 シンクロニシティとは、そこには何らの因果関係などないはずなのに、まるで似たような意味をもつかのように結びあわされている現象が場面をこえて同時的におこっていることをいう。
 これは、かつてポオやボードレール ( 773夜 ) が「コレスポンダンス」(万物照応)とよんだことといくぶん近いものをもっている。近いものではあるが、今日、シンクロニシティといういうばあいは、そこにコインシデンス(同時生起)あるいはパラレリズム(平行的生起)( 683夜 ) がおこっているときの現象をいう。シンクロニシティは「非因果的連結」の総称なのだ。
 一方、ユングは、このような隠れた内蔵秩序がいずれ顕現してくるというしくみは、実は人間の「心」にこそあてはまるのではないかとみなしたのである。
 デカルト以来、物質のふるまいと意識のふるまいはまったく別なものだとみなされてきた。ところが抗生物質が発達し、脳科学が記憶や想起のしくみの解明に着手しはじめると、心や意識や精神が意外にも多くの物質(たとえば脳内物質)のふるまいと密接な関係をもっていそうだということになってきた。( 461夜
 けれどもユングは、何かの一つの物質が何かの一つの心理作用に対応しているとか、意識を励起させたりしているとかは考えない。マインド・スタッフ(意識物質)があるとは考えない。
 そうではなくて、そのような物質と意識の対応関係をもともといくつも含んだ基底状態のようなものが、人間にはそなわっていると見た。いわばわれわれには最初から「無の充満」があるとみなしたのである。
 西洋的な用語のプレローマは、東洋的用語でいえばマンダラである。ユングはときにプレローマに、ときにマンダラに重心をおきながら、人間の意識をバラバラにせず、また個人のレベルに還元もしきらないで、なんとかプレローマあるいはマンダラ的な原意識として解釈しようとし、パウリから受けたシンクロニシティの正体の謎に迫ったのだった。そこからはたとえば「集合的無意識」という考え方や、また「箱庭療法」という治癒方法が“発見”された。
 われわれはついつい“nothing but"(~にすぎない)と言いすぎてきた。それは物質の特性のひとつにすぎないのではないか。それは君の思いこみにすぎないのではないか。それは地球関係が汚染されているからにすぎないのではないか――。
 そうでもあろうが、そうでもないときもある。今度、誰かが訳知りに“nothing but"と言い出したときは、いったいそんなこと誰が決めたんだ、と言い返してやりなさい。