松岡正剛の千夜千冊・887夜
鈴木大拙
『禅と日本文化』
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禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかというと、「般若」と「大悲」である。それを英語でいえば、般若はトランセンデンタル・ウィズダムに近く、大悲はコンパッションといえるであろう。この「超越的な智恵」たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする。
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人間はそもそも「無明」と「業」の二つの密雲にはさまれて生きているものである。禅はこの密雲に抗って、そこに睡っている般若を目覚めさせる方法なのである、トランセンデンタル・ウィズダムはその間隙に出現する方法の智恵なのだ。諸君、その方法を知りたいなら、まず学校で習ったような順で物事を考えることをやめなさい。なぜなら、禅は「認識のコースを逆にした特別の方法」( 756夜 ) をもっている。そう言って大拙は突如として、だからこそ、「禅は夜盗が夜盗に学ぶようなものなのだ」と言った。
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こういう奇想な話を紹介し、大拙はすかさず「禅は不意を打つものだ。それが禅の親切というものだ」( 385夜 ) と説いたのである。
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芭蕉のエピソードにこういう話がある。佛頂和尚のもとで参禅していたときのこと、和尚が突然に芭蕉の庵を訪れ、「近頃はどうしておられるかな」と問うた。それがきっかけで「今日」(today)とは何かという話になった。
芭蕉は「今日」とは「雨が通り過ぎて青苔が潤っているようなもの」と答えた。和尚は「その青苔がまだ芽も生えていない時も、いま、あろう」と突っこんだ。ここまではよくある禅の公案に近い。が、このとき芭蕉がぽつんと放った言葉が、「蛙とびこむ水の音」だった。
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キリスト教はどこかでポラリゼーション(分極)をおこせばよいわけである。神と人とは結局はどこかで分離する。だからこそ絶対唯一なる神がいつまでも残る。けれども禅はそうはしない。神も人も青苔も水音も、たちまち一緒になって、またそのそれぞれの「元々の時」に戻ってくる方法をもつ ( 275夜 )。これが道元の「有時」である。そう説明していた。
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それゆえ「寂び」を試みに“tranquillity”とも訳しているのだが、これをもう一度日本語にあてるなら、きっとそいつは「妙」とか「三昧」になるのだろうとも言っている。このセンスこそ大拙であり、日本文化はこのように扱うべきだったのである。
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ビアトレス・レーンのことも書いておきたい。学習院と東京帝大で英語を教えていた婦人、のちの大拙夫人のことである。このベアトリーチェがいなかったら、大拙はリアルタイムの速度で世界に届かなかったろうし、ぼくもここまで大拙に溺れなかったかもしれなかった。
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