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松岡正剛の千夜千冊・934夜

松岡正剛の千夜千冊・934夜
野上弥生子
『秀吉と利休』
 その野上弥生子がいない。そう思うと、とたんに日本がこれから何を準備しなければならないかということを、背中にギュッと烙印されたような気分になる。
 作品ももちろん読まれるべきである。『真知子』は二十代になったすべての女性が立ち会うために、『海神丸』は人間の犯罪が秘める大きな本質を知るために、『迷路』は日本の青年知識に巣くう左翼思想の意味を問うために、そして『秀吉と利休』は安易な歴史小説ブームに遥かな頭上から鉄槌を落とすべく、それぞれじっくり読んだほうがいい。
 おそらくタイトルだけは広く知られているであろう『秀吉と利休』(1963)も、いまや“おばさん茶道”ばかりで埋めつくされた日本に対して、今日なお鋭利な難問を突き付けている作品である。
 歴史小説のように寝転がっては読めないし、桃山文化への憧れやお茶の愛着があったくらいでは、たちまち弾き飛ばされる。
しかも、弥生子の恋心のほうは別にちゃんととってある。その相手というのが『銀の匙』の中勘助なのである(第31夜)。
 勘助に寄せた恋情については、弥生子は長きにわたって「秘すれば花」を貫いた(もっともいまでは野上弥生子日記も公開されて、有名になってしまった関係であるけれど)。
 これで、野上弥生子がいない日本がいかにヤバイかはわかってもらえたと思うのだが、本人はその原点を最後の最後になって作品に書きこもうと試みた。それが遺作となった大作『森』である。なんと87歳から10年をかけた。