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松岡正剛の千夜千冊・935夜

松岡正剛の千夜千冊・935夜
マルセル・プルースト
『失われた時を求めて』
 ここでの第2章「土地の名・土地」は第1部でも同じ章立てがもうけられていたのだが、プルーストがこの作品全篇にこめてゲニウス・ロキ ( 926夜 ) の解読にあたっていることをあらわしている。
 のみならず、このあたりからプルーストのこの叙述の方法に、「記憶という方法」や「方法としての記憶」がぴたり狙いどうりに進んでいることに、感嘆するようになっていた。
 それは記憶と忘却ということだ。記憶にも方法があるのだが、忘却にも方法がある。どのように忘れるかということが、「われわれ」の現在をつくっているわけなのである。
 「われわれ」は何かを忘れさせてくれるデザインに、たいてい夢中になるものなのだ。
 30代のプルーストには、母親の死が最大の事件である。その悲嘆はかなりのもので、このあとサナトリウム療養 ( 641夜 ) に入っている。
 が、プルーストはもともとバイセクシャルだったから、つねに夫人にも娘にも少女にも心を惹かれつづけた。こうして38歳、ある日、紅茶にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味をきっかけに、失われた時のクオリアをいかに綴るかという方法的模索に入っていったのである。コンブレーは、ここで蘇ったのだ。