松岡正剛の千夜千冊・0970夜
ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ
『ヴィルヘルム・マイスター』
URL> https://1000ya.isis.ne.jp/0970.html
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惟うにヴィルヘルム・マイスターを語るということは、ドイツにおける精神の修養の過程をあますところなく語るということで、ドイツ人の修養を語るとはまさにゲーテを語ることなのである。ゲーテを語ることはドイツの感情そのものを語ること、ドイツの感情はその最もドイツ的な時象を語ることにほかならない。
そのドイツ的な時象を語るにはゲーテやシラーの疾風怒濤を語らないかぎりは、何も始まらない。すべてがゲーテで始まったとは言わないけれど、近代ドイツを語ることは大ゲーテに出自する。
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ゲーテはイタリアで「普遍」と「原型」を本気で探した。異国に赴いて「普遍」と「原型」を探しだすには、エキゾチシズムに溺れてはいられない。ゴーギャンがそうであったように、その土地の奥の深みと向き合っていく。それをゲーテは二年でやってのけた。モルフォロギーはメタモルフォーゼとなって動き出したのだ。
そのことをミハイル・バフチンは『イタリア紀行』でゲーテがブレンナー峠にさしかかったときの観察をあげて、褒めちぎったものだった。「アルプスの雲の変容と天気の変化は山塊のもつ引力による」とみなした個所である。たしかに『イタリア紀行』はそうしたメタモルフォーゼの自然観察に満ちている。ぼくが好きな花崗岩についても、ゲーテは岩石を地球の空間的配列から見つめたうえで、花崗岩にひそむ時間の堆積が原初の空間の記憶にあたっているのではないかというような指摘をしていた。
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執筆はとんでもない長丁場になった。五十年以上をかけている。作品は、『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』とシラーの激励で再開して完成させた『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に分かれて発表された。
修業時代の主人公は裕福な商人の子で演劇を志している青年ヴィルヘルムである。旅まわりの一座とともにさまざまな地で多様な人物と多彩な体験をする。遍歴時代ではヴィルヘルムは息子のフェーリクスと二人で各所を訪れる。バフチンがさすがに「クロノトポス」(時の場)という用語を発明したように、ゲーテは主人公に交差してくるクロノトポスの結び目ごとに物語を発明していくのである。
けれども制作には長い年月がかかったわけだから、そこにはさすがのゲーテにも構想のためらいと表現の変更とがあった。静かに苛烈な恋もしたかった。
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ゲーテにおける少女がどういうものなのか、覗きたいのならやっぱり『ファウスト』を読むべきだ。『ヴィルヘルム・マイスター』はそのあとでないとわからない。
ファウストがメフィストフェレスに魂を売ったという話ではない。壮大な生命観の賛歌をめざした話である。ファウスト博士が自身の罪業を負い、「悪」と戦う活動精神の悲劇を描いているのであって、メフィストフェレスは悪魔というより、つねに「悪を欲することによってかえって善をなしている人格」なのである。この逆倒のメフィストフェレスを受信することこそ、『ファウスト』の読法の本懐になる。のちに手塚治虫が想像力の源泉としたものだった。
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グレートヒェンは男装の少女ミニョンであり、ミニョンと組んでいる老いた竪琴師は、ゲーテがイタリア旅行で出会った老人の「原型」なのだ。ぼくはこれを最初に読み進んだとき、すぐさま『華厳経』の入法界品を思い出し、マイスターが五三人の善知識を訪ね歩いた善財童子に見えたものだった。けれども善財童子の目標は解脱であって覚醒である。ゲーテがヴィルヘルム・マイスターに託した目標はそういうものではなかった。それはあえていうなら華厳よりも華厳禅に近く、華厳禅よりも曹洞禅に近い透体脱落だったのだ。
ゲーテが『ヴィルヘルム・マイスター』や『ファウスト』を書いたテーマを、多くの文学史では「人間にひそむ普遍性の探求だったとみなしている。それはそうかもしれないが、ぼくは「普遍性についてのドイツへの導入」もしくは「普遍性についてのドイツからの回答」だったと思いたい。
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ぼくはこのことが、のちのドイツ観念哲学やドイツ・ロマン主義の系譜を、キルケゴールやショーペンハウアーやニーチェの思想を、カフカやグラスの文学を支えていったのだと思う。のちに『ファウスト博士』という作品も仕上げてみせたトーマス・マンは『ヴィルヘルム・マイスター』がわれわれに告げているのは、いいかげんに個人主義的人道主義を捨てて、共働体で出会った者たちとの連帯をはかってほしいということだったのではあるまいか、と書いた。かくしてヴィルヘルム・マイスターは一から十までがドイツ最大の無常凱歌だったのである。
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〈リンク〉千夜千冊・1700夜 鎌田茂雄「華厳の思想」