松岡正剛の千夜千冊・996夜
王陽明
『伝習録』
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だいたい三島由紀夫にして、陽明学に目覚めたのはだいぶんあとになってかららしく、中村光夫との対談のなか、江藤淳が朱子学をやっているので、自分は陽明学をやろうと思っているというようなことを言っているのが、やっと最初の記録(1968)で、まさに左翼・全共闘台頭のときなのである。
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テキストは岩波文庫版にしたが、明徳出版社の安岡正篤のものや岡田武彦のものも、最近出回っている吉田公平のものも、いろいろ読まれるのがいい。安岡の講義もそれなりにおもしろい。また朱子学や陽明学や日本の儒学も読んだほうがいい。
これから書くように、陽明学は中国と日本を頻繁にまたぎ、儒仏をゆさぶって眺めたほうがいいからだ。( 460夜 )
その前に、「伝習」という言葉を説明しておく。
これは『論語』学而の「伝不習乎」に初出していて、古注では「習はざるを伝ふるか」と訓んでいた。朱注では「伝へて習はざるか」と訓んだ。どちらもあると思うが、「伝へて習はざるか」のほうがぴったりくる。
漢字の「習」とは雛鳥が飛び方を学んでいることをいう。白川静さんによれば(987夜)、それを人がまねて、曰の形の台の上で羽を擦って、何事かに集中する呪能行為のことをいう。その伝習だ。ぼくが好きな言葉である。
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内村鑑三の『代表的日本人』(250夜)には、大きくは2カ所に陽明学についての言及がある。中江藤樹と西郷隆盛のところだ。
よく知られているように、二人とも陽明学に心服した。藤樹は日本の陽明学の泰斗であって、天人合一を謳って近江聖人と敬われた。その弟子に熊沢蕃山が出て、水土論と正心論を説いた。大西郷についてはいうまでもないだろうが、王陽明を読み、『伝習録』を座右にし、「敬天愛人」を心に決めた。
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それならば、敗戦後にこのシンボルは地に堕ちてもよかったのだが、そうはならなかった。歴史というものはつねに意外な反転をおこすもので、ここにもちょっとした謎があるのだが、この尊徳の言動と成果は実はGHQによって民主主義のシンボルと解釈され、結局、全国の小学校に残されたのである。これは、GHQのほうが朱子学効果を見抜いていたということになる。
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このとんでもない発想は何なのか。すぐさま察知できるのは、ここには陽明学が仏教も道教も平気で呑みこもうとしている姿であり、本来は「孔子の正名」をもってスタートしたはずの儒学に、ついに「荘子の狂言」をも加えることを予兆させる姿なのである(425夜)。
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たとえば幕末維新で王政復古がおこったのは、徳川社会に宗教の軸がなくなっていたことを王政(天皇制)に巧みに移行させたものだったのだし、伊藤博文が明治憲法のために書いた「起草ノ大綱」には、「我国ニ在テハ宗教ナルモノ、其力微弱ニシテ、一モ国家ノ機軸タルベキモノナシ」とあって、天皇制を擬似宗教化したいという意図がはっきり見えていた。
それほど徳川幕府の宗教政策と儒学導入は大きい意味をもっていたのだが…
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