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松岡正剛の千夜千冊・1007夜

松岡正剛の千夜千冊・1007夜
岩淵達治・早崎えりな
『クルト・ヴァイル』
 ベルトルト・ブレヒトをとりあげないで、クルト・ヴァイルにしたというのが、ぼくの自慢だ。本書がブレヒト演劇のオーソリティである岩淵達治と、ヴァイルやアイスラーの研究家である早崎えりなが組んだ本であるというのも、ぼくなりのおシャレのつもりだ。
 だいたい『三文オペラ』の大当たりは、むろんブレヒトの卓抜な戯曲のせいではあるけれど、それ以上にクルト・ヴァイルの作曲劇であり、また、主役のヘラルト・パウルゼンが「空色の蝶ネクタイをやめるのなら芝居をおりる」と言って憚らなかった入れ込み演技でもあった。とりわけぼくは、ヴァイルが「あいくちマック」の曲想をベルリン市街の交通騒音をヒントにしたというのが気にいっている。
 わかりやすく時代をかいつまめば、時すでに「印象」(インプレッション)の時代はすっかり終わって、20世紀初頭は「表現」(エクスプレッション)の冒険に向かっていた。
 しかし表現主義だってやりすぎれば表現主義の限界を露呈する。ひんなことはダダ ( 851夜 ) もシュルレアリスムも体験したことだ。表現主義も「誇張の技法」が来たるべき時代の邪魔をした。これでは事物や事態の本来が歪みすぎていく。もっと直截に事物や事態をあらわせないものか。そういう表現方法はないものか。こうして1920年代の後半に動き出したのが「ノイエ・ザハリカイト」(新即物主義)の動向である。ノイエ・ザハリカイトは表現主義への幻滅から生まれたといってよい。
 日本ではこういうふうに映像が演劇舞台に入ってくるのをギョーカイ用語で「連鎖劇」というのだが、これはまさに「連鎖オペラ」の誕生だった。
 けれども『家庭用説教集』というブレヒトの詩集に5つのマハゴニー・ソングが入っていることに注目した。マハゴニーというのはブレヒトが作り上げた想像上の虚構の都市である。ヴァイルの発案で、二人はこのマハゴニー・ソングをつなげた『小マハゴニー』というソング・オペラを組み立てた。これがヴァイルにジャーマン・ポップを思いつかせたのである。一方、ブレヒトには大衆的演劇の可能性の火をつけた。
今晩はブレヒトについての議論はしたくないので、一言だけ説明するにとどめるが、この『マハゴニー市の興亡』に至った一連のマハゴニー幻想はブレヒトのアメリカニズム幻想 (1047夜) なのである。想像都市マハゴニーはアメリカなのだ。しかしブレヒトの思想はすでにマルクス主義 (789夜) に半身を浸けていて、大恐慌以降のアメリカに自由な演劇や歌曲が生まれるはずなんてないと見ていた。一方、ヴァイルのほうはそうではなかった。ドイツもアメリカもピアノが生む力でなんとでもなると見えていた。









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