スキップしてメイン コンテンツに移動

松岡正剛の千夜千冊・1008夜

松岡正剛の千夜千冊・1008夜
吉川幸次郎
『仁斎・徂徠・宣長』
 宣長はマガゴト(凶事)はヨゴト(吉善)とともに作用しているもので、儒者が「隅から隅まで掃き清めたるごとく世ノ中を善事ばかりになさんとする」のはおかしい、「吉凶(よしあし)の万事、みなことごとに神の御所為(みしわざ)」(直毘霊)と道破した。
 孟子の「公孫丑」に「四端」の議論がある。「井戸に落ちようとする子供を見かけると、誰だってはっとして助けたいと思う」という有名な比喩によって、いわゆる「術剔惻隠の心」を説いたくだりだ
 「言の文(かざ)らざるは、行わるること遠からず」なのである。徂徠はこの達意と修辞がもつルールに深い関心をもつ。
 徂徠は「先王の道」を求めたが、その「道」の中心意義を従来の儒者のように「徳」にはおかず、むしろ「詩・書・礼・楽」においた。
 一言でいえば、吉川にとっての宣長思想とは、「言」(ことば)と「事」(わざ)と「意」(こころ)とが合致しながら「思い」を開いていけば、そこにおのずから古来の意図(古来の言語の本質)が解けていけるという方法がありうるのだという感嘆そのものである。また、その「思い」が「もののあはれ」であってよいという、その感嘆である。
 たたみかけて、書く。
 ひとつは、白川静 ( 987夜 ) の『孔子伝』(中公叢書)のことである。これはまことに画期的な孔子論で、どんな類書ともちがっている。「礼」と「楽」の始原を原始共同体的な巫祝性に求め、そこから「儒」の発生を説いた。このことは徂徠の「礼・楽」の重視につながるものではないかということだ。ぼくは儒学のおおもとの前提を考えるとき、いつもこの白川仮説を思い出している。











—————————