松岡正剛の千夜千冊・1014夜
ジャン・バーニー
『エットーレ・ソットサス』
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もうひとつ、ソットサスが「デザインだらけ」と慨嘆した1960年代後半は例の1968年 ( 202夜 ) に頂点を迎えるのだが、この年はソットサスやその仲間たちにとってはすでに「消費主義の終わり」であったということだ。日本が「消費主義に問題があるのかもしれない」とやっと思ったのは、堤清二がすっかり西武百貨店の第一線から退いた1990年代のバブル崩壊直前のこと( 804夜 ) だった。
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それ以外は未来派とバウハウスの残響、ファシストたちの頑強なデザイン、ル・コルヴィジエ ( 1030夜 ) の真似があっただけ。これがエットーレ・ソットサスが青年期に立ち向かわなければならない相手だった。
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1926年に結成されたグルッポ・セッテ(グループ7)がそのインダストリアル・デザイン化を支えた。そこには古代ローマ帝国の肥大化があるばかり ( 926夜 ) だ。
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これらを通してソットサスが獲得したことは、バウハウス流の機能主義にもとづいた技術優位社会 ( 1035夜 ) を体の中から払拭することだったと思う。
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ひとつは、「いいデザインというものは月に行く可能性のようなもの ( 795夜 ) だ」というもの、これはいい言葉だ。ここには「その存在」がそこにあるだけで何か名状しがたいメッセージが一斉に放たれるデザインを志向したいという意味である。まさに月とはそういう「その存在」だ。
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1997年、ぼくはついにエットーレ・ソットサスに出会えた。第1回「織部賞」のグランプリ受賞者として岐阜に招いたのだ。80歳になっていた。会ってすぐにシルカ博士ことジョン・C・リリーに共通するもの、超然的だが体温の高い人格 ( 207夜 ) を感じた。後ろ髪をちょっと束ねてピンクのリボンをしているのが可憐だった。
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そして磯崎新 ( 898夜 ) からは「例外をやってのけた唯一の人だね」というふうに、何度も聞いていた。
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「デザインに対して唯一配慮されるべきことは、儀式の進行を促進できるオブジェをつくろうとすることです。すなわち、もろく、はかなく、不合理であやうい日々の状態のなかで、ふと凝縮できる瞬間をもたらすことができるような移行をおこすこと、それがデザインなのです」。
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織部賞のグランプリにソットサスを真っ先に推したのは磯崎新と内田繁 ( 782夜 ) だった。
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