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松岡正剛の千夜千冊・1025夜

松岡正剛の千夜千冊・1025夜
藤田正勝・安富信哉
『清沢満之』
 この本が出版された2002年がちょうど清沢満之没後100年だった。清沢は文久3年(1863)に生まれて、明治36年(1903)に40歳で亡くなった。この年は日露戦争の予兆が見えはじめて日本中が開戦熱に吹き荒れ、内村鑑三 (250夜) ・幸徳秋水・堺利彦が非戦を唱えて「万朝報」を退社した年にあたる。露伴 (983夜) が『天うつ浪』を発表、有島武郎 (650夜) が渡米、岡倉天心 (75夜) が『東洋の理想』を英文で出版した年だ。
 廃仏毀釈のなかの仏教界は、最初は大混乱である。
 大教院もつくられた。国民教化運動のセンターのひとつであるが、これは仏教側の期待に反してまたしても神道中心のものになり、島地黙雷や石川舜台はここからの分離をはたすべきだと見て、真宗自立の運動をおこした。これをきっかけに、真宗各派はやがて仏教界の指導的役割をはたしていくことになる。そのなかから最後に立ち上がったのが、「禁欲」と「精神主義」を訴えた清沢満之であり、親鸞 (397夜) の近代性と「求道」を力説した近角常観であり、若き川上肇も加わった「無我愛」運動の伊藤証信だったのである。
そこへ在家仏教者たちの独自の活動が加わっていく。山岡鉄舟 (385夜) ・鳥尾得庵・大内青巒はその象徴だが、青巒の「共存同衆」のコンセプト、楽善会による築地養育院での身障者教育、尊皇奉仏大同団の結成などは、その活動の特徴をよくあらわしている。田中智学や高山樗牛が先導した法華精神の高揚強化も動き出した (378夜) 。こうした流れをうけて、いよいよ清沢満之が立ち上がる。
この方法は西田幾多郎の「絶対矛盾の自己同一」に先駆ける方法的凱歌であり、また仏教哲学の近代的先駆性にあたる方法論の提起だったと思われる。つまり清沢は根本撞着や矛盾や葛藤をまったく恐れていないのだ。「根本撞着」ではなく「根本の撞着」を発動させている。すばらしい方法的自覚だというべきだ。
 もうひとつ注目しているのは「消極主義」である
 清沢の宗教観は「有限と無限との関係を覚了する」ということにある。これを仏教に分け入り、親鸞を通貫して、新たな近代の人間の生命観に伝えることが清沢がみずからに課した役割だった。このため、清沢は約していうなら「処世の実行」「内観」「満足の現前」「他力の確信」を主張して、精神主義を唱えた。
しかし一方、どうせ私のせいです、自分の責任ですと言うばかりでは、むしろ無責任になる。清沢は「奮起を促すこと」を信条としていたから、こうした無責任に転化する責任主義は許さない。
 創刊号に清沢は満を持して『精神主義』を執筆する。斎藤孝ではないが、声を出して読むとよい。「吾人の世に在るや、必ず一つの完全なる立脚地なかるべからず。もしこれなくして、世に処し、事をなさんとするは、あたかも浮雲の上に立ちて技芸を演ぜんとするものの如く、その転覆を免るること能はざること言を待たざるなり。しからば吾人はいかにして処世の完全なる立脚地を獲得すべきや。蓋し絶対無限者によるの外ある能はざるべし」。まさにフラジャイルな認識にもとづく精神主義宣言である。