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松岡正剛の千夜千冊・1099夜

松岡正剛の千夜千冊・1099夜
ヴァーツラフ・ニジンスキー
『ニジンスキーの手記』
 そのこと、ずっと知らなかったのだが、ニジンスキーは『牧神の午後』の舞踊譜を独自のダンス・ノーテーションとして創案していた。
 ハンガリーに抑留されていたときというのは、ディアギレフの「バレエ・リュス」( 0623夜 ) を解雇されたのちのニジンスキーがブダペストの妻ロモラの実家に身を寄せていたころ、第一次世界大戦 ( 0643夜 ) のために戦争捕虜として自宅軟禁されたことをいう。1914年から翌年にかけてのことだ。
 当時のバレエ界で通用していたのはステパーノフ記譜法で、アレクサンドル・ゴールスキーの親友のステパーノフが考案した記譜法を広めたものである。五線譜に記号的な表示をする。ニジンスキーはこれをまったく新しく改良してしまった。ところが長らくそのノーテーションが解読できなかったのだ。
ぼくもポオの文章 ( 0972夜 ) や『大菩薩峠』 ( 0688夜 ) や自分が目をつぶって歩いた道を記譜すること、あるいはフレーゲの概念記法や天文学のHR図やチョムスキーの生成文法譜が好きなほう ( 0738夜 ) なので、ノーテーションやスコアリングには格別の関心があるのだが、ニジンスキーが彫刻のトルソーをふくめて体の動向を独自に記譜していたことには驚いた。
 私はもっと踊りたかったが、神はもう充分だと言った。‥私は以前は恐ろしいことをした。神を理解していなかったからだ。神を感じていたが、理解していなかった。‥私の感情は大きいので、学ばずとも自然が何であるかを知っている。自然とは生だ。生とは自然だ。猿は自然だ。人間は自然だ。猿は人間の自然ではない。私は人間の姿をした猿 ( 1072夜 ) ではない。
まわりの人は私が狂うだろうと思っている。私の頭がおかしくなると思っている。ニーチェは頭がおかしくなった ( 1023夜 ) 。考えたからだ。私は考えない。‥私は神であり、「牛」だ。私はアピス人だ。私はエジプト人だ。私はヒンドゥ教徒だ。私はインド人だ ( 1021夜 ) 。私は黒人だ。私は中国人だ ( 0036夜 ) 。私は日本人だ( 0250夜 )。 私は異邦人であり ( 0509夜 ) 、よそから来た。私は海鳥だ。私は陸鳥だ。私はトルストイ ( 0580夜 ) の木だ。私はトルストイの根だ。私はトルストイのものだ。
 私は金のない雑誌である ( 0858夜 ) 。
 パリで、ニジンスキーはディアギレフに心身ともに愛された。ディアギレフにとってニジンスキーは「ダスール・ノーブル」(高貴な踊り手)であるとともに、熱愛の恋人だった。が、ニジンスキーは表面は従い、どこかで逃げていた。ディアギレフは逃さなかった。そのぶん、ニジンスキーはダンスに賭けた。若きジャン・コクトー ( 0912夜 ) はディアギレフの舞台に圧倒され、「ニジンスキーは船底の魚のように跳ねた」と驚嘆した。コクトーだけではない、ピカソもエリック・サティもココ・シャネル ( 0440夜 ) も、みんなロシア・バレエとニジンスキーとパヴロヴァとカルサーヴィナにぞっこんだった。ロシア・バレエはパリを挑発しつづけたのだ。
ディアギレフは「バレエ・リュス」の本拠をモンテカルロに定め、組織を強化し、ウェーバー作曲ベルリオーズ編曲の『薔薇の精』やストラヴィンスキー作曲の『ペトルーシュカ』、ストラヴィンスキー作曲でフォーキン振付けの『火の鳥』 ( 0971夜 ) を大ヒットさせた。
 こうして1912年になってニジンスキーが初めて振付をするチャンスがやってきた。それが『牧神の午後』である。初演は5月29日だった。
 身体に潜在する欲望は、ときに体制化されたモードやスタイルと激突する。プレスリーもビートルズもそのように起爆した。エイゼンシュタインも土方巽 ( 0976夜 ) もそのようにモードとスタイルの革命をおこした。ニジンスキーにおいても同じであった。たとえば『遊戯』はドビュッシーが作曲したのだが、ダンスにはテニス・プレイヤーの動きとリズムがとりいれられた。基本ポジションもアン・ドゥオール(開脚)ではなくパラレル(平行脚)を採用した。これは土方巽がガニマタを基本においたことに匹敵する。

 やはり象徴的なのはその後の『牧神の午後』である。どんなダンサーが踊っても、誰もがニジンスキーと交わっていかざるをえなかった。そうだとすれば『牧神の午後』は、世阿弥が仕掛けた複式夢幻能 ( 0118夜 ) なのである。ダンサーたちはニジンスキーの呪縛から逃れられないだけではなく、そうすることによってどうしても掴みえないニジンスキーのすべてと交感したいのだ。