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松岡正剛の千夜千冊・1175夜

松岡正剛の千夜千冊・1175夜
無門慧開
『無門関』
言語道断なのである。
それが禅なのだ。
打成一片。趙州無字。
そもそも座禅は心が乱れているから座禅するわけで、心が乱れていなければ座することもない。けれども座したところで次はない。仏教の基本は「戒・定・恵」(かい・じょう・え)にあるのだが、自分を戒め、心の乱れを制して、知恵に達するのが仏教なのである。その知恵が般若だ。座禅だけでは般若には届かない。そこに禅語が途端めがけて、横っ跳びするのである。
 『無門関』の本則(公案)は48則で構成されている。前にも書いたように、これにそれぞれ「評唱」と「頌」が付いている。
 そしてその第1則に掲げたのが、あの有名な「趙州無字」なのである。
 これで一挙に、公案が高次化された。いったい犬に仏性が「無い」というのか、趙州と僧のあいだに何も無いというのか、それともなんであれ「無」というものが言い放たれたのか。あるいは質問自体がくだらなかったのか。どっちなのか。ここから商量がはじまる。
 そこで「趙州無字」で最初に躓けと言ったのである。たった一文字の「無字」に参りなさい。これを一日中、ひっさげろ。その前で唸りなさい。無門は、こうも言っている。この「無字」を「虚無の無」とか「有無の無」などと決してみなしてはいけない。この「無字」は灼熱の鉄の玉のようなもので、これをいったん呑みこんだら、呑みこもうにも呑みこめず、吐き出そうにも吐き出せない。そういうものなのだ、と。だが、そのうちに悪い知識がみんなとろとろととろけ出す。そうすれば、「無」も爆発してくれるだろう、と。
 おそらくちょっとは見当がついたかもしれないが、ここにはニヒリズムなどはひとかけらもない。無我の境地もない。無心になれとも言ってはいない。そういうものではなくて、ここにあるのは内と外とをひとつにする「打成一片」(たじょういっぺん)の一撃と、すべてをいきなり爆発させる「驀然打発」(まくねんたはつ)のトリガーなのである。それに気がつくまでは、それまでは1年でも2年でも、ムームー、無ー無ーと唸っていなさい、というのだ。まさに山岡鉄舟(385夜)が「趙州無字」をぶつけられ、十数年にわたってそのようにムームーと呻いた。
 江戸時代中期の白隠禅師もいくつかとびきりの公案をつくった。なかでも「隻手の音声」は抜群である。「両掌(りょうしょう)相打って音声(おんじょう)あり。しからば隻手(せきしゅ)に何の音声かある」というもので、両方の手を打ったらむろん音がするが、では片手の音はどういうものなのかという公案だ。
 いったい片手に残る音を考えるのか、音など捨てるのか、それとも手のことすら忘れるべきなのか。さあ、どうぞ、考えていただきたい。






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