松岡正剛の千夜千冊・1217夜
ラスロー・モホリ=ナギ
『絵画・写真・映画』
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ひとつは「印刷から写真へ」という光学と化学の出会いに、ひとつはニエプスからマイブリッジをへてジュール・マレイに及んだ驚くべき写像実験の数々に、ひとつはアッジェやラルティーグやアンセル・アダムスやエドワード・ウェストンらの初期の名人写真に、ひとつはマン・レイ(74夜)やモホリ=ナギのフォトグラフィズムに、心が奪われた。
写真の現在も徹底して見た。当時、流行の森山大道や高梨豊らの「コンポラ」(コンテンポラリー・フォト)も、のちに会うことになるリチャード・アベドンを筆頭としたファッション写真も(この延長で横須賀功光や操上和美の仕事にふれることになる)、ちょうど脚光を浴びはじめたロバート・フランクらの都市の切り取り感覚も、木村伊兵衛も土門拳(901夜)も浜谷浩も篠山紀信も、みんな見た。ことごとく見たといっていいと思う。
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いま振り返ると、この思いこみがその後のぼくのヴィジュアル・シンキングの基礎体力になっていたのではないかと思う。むさぼるように眺めまわしたモホリ=ナギやケヴィン・リンチの仕事と、そしてすでに何度か「千夜千冊」に紹介してきたフォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』(735夜)やダーシー・トムソンの『成長と形態』を読み耽ったことは、そのようなことに関心をもったぼくをおもしろがっていろいろアドバイスをしてくれた杉浦康平(981夜)の存在とともに、ぼくのヴィジュアル・ワークに対する自身を深めていったにちがいない。
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さて、今夜とりあげた『絵画・写真・映画』は、『材料から建築へ』とともに、モホリ=ナギの代表的な著書として知られる“教材”である。作品集ではない。
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しかし、そのあと写真の技術の可能性と限界を紹介する段になると、突如として「カメラを用いない写真」に視点を移し、ここにモホリ=ナギ得意のフォトグラムの新たなイメージ学が展開されることになる。まるで20世紀のカメラ・オブスキュラ ( 90夜 ) の可能性を一人で切り開いていくという勢いになる。
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同じことが、実際にはコンピュータでもおこってきた。画像を切り取り、合成し、融合させるには、そこにひとつずつデジタル技術がかかわってきた。しかしながら、そのすべての技術はいずれコンピュータがとことん内蔵することになって、それを諸君が手で触ることができなくなった。触覚の喪失だ。いや、そうしたハードとソフトのいずれにもかかわる部品は、この目でも見られなくなっている。視覚の喪失だ。
これがイメージの貧困を生んだのである。イメージの「出現の現場」に立ち会わない集団をつくってしまったのだ。コンピュータは視覚によっておこる知覚の変換を失わせてしまったのだ。
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すでに用意されたツールを使用するだけの日々、
デジタル時代を迎えた現在、我々は何か大切な
クリエイティブマインドを見失っているのではないか。
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