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松岡正剛の千夜千冊・1254夜

松岡正剛の千夜千冊・1254夜
池内了
『物理学と神』
自然も世の中も、パラドックスに満ちている。
かつては、そういう矛盾を「神」が引き受けた。
面倒な問題は「悪魔」に押し付けておけばよかった。
本書が、ふつうなら科学史の解説書になりかねない内容を思考法の問題として扱っていて、そこがよくできているのは、神の想定の歴史と科学の目的の関係を、池内さんが歴史の根幹での相同性としておさえているからなのである。
 今夜はその流れの骨太なところだけをかなりスキップしてサマリーする。1241夜に紹介した『デカルトからベイトソンへ』などとの関連で読んでもらえれば、さらにおもしろくなるだろう。
 それが13世紀のトマス・アクイナスあたりから、ちょっとずつアリストテレス体系と神学体系を少し調和させようとするようになった。いいかえれば、アリストテレス体系との矛盾を避けるようになってきたのだ。これをなんとかふんだんのレトリックとメタファーを駆使し、さらにさまざまな知をコスモロジックな構造にあてはめて合体記述にしてみせたのが、ダンテの『神曲』(913夜)だった。
 そこに登場してきたのがデカルトだった。デカルトは公理を決めて、その公理のうえで理性をはたらかせるというやり口で、有効な道具をつかって「世界の決め方」をつくるべきだと考えた。道具は、994夜にライプニッツのローギッシュ・マシーネについて書いておいたように、代数を前提にした記号的な数学だ。
最初にそのことをはっきり言い出したのは、ナポレオン時代のラプラス(1009夜)である。もともとデカルトやニュートンによって確立した近代科学の原理は、「世界にはたらく力がすべてわかっているのなら、ある時刻におこる世界の出来事はあらかじめ予測できるはずだ」というものだった。これを「決定論」とか「決定論的世界観」というのだが、そこでラプラスは、それならば世界にはそのようにすべての出来事を予知できる悪魔がいるということだろうとみなした。これが「ラプラスの魔」だ。
論理や数学で証明(説明)できないものなんていくらでもありうるということでもあった。それを言ってのけたのがゲーデルの「不完全性定理」(1058夜)である。
1960年代に入ると果敢な研究が始まって、そこにはカオス(1066夜)やソリトン(848夜)や散逸構造(909夜)といった“新たな秩序”が隠れているだろうことを仮説した。
 アインシュタインの方程式で記述できるのは、プランク時間以降の現象である。この時間は実数で示せる最初の時間で、現在まで止まることなく時を刻んでいる。それ以前は重力も量子論的に扱わなければならない。
そこでホーキングらは、ここに「虚数」のような時間があると想定した。時間はゼロから始まったのではなく、“有限ゼロ”ではないゼロ以前のプランク時間から始まったとみなした。逆から見れば、現在から過去にさかのぼっていったとき、時間はプランク時間に突入したところで突然に消失したとみなしたのだ。計算してみると、まあまあだった。虚数時間でもなんとかうまくいく。で、原理主義の物理学者たちはしだいに大胆になって、これを空間にもあてはめた。ゼロ以前空間に「プランク長さ」というものを想定し、その極微のスケールがあらわれるときをもって「無」の空間の誕生とみなしたのである。
 結局、「人間原理の宇宙論」は、やはり神を人間におきかえたにすぎなかったのだと、今日の段階では言わざるをえない。まだ本来のフラジリティをめぐる考え方は宇宙にも生命にも、くみこまれてはいないのだ。いささか残念なことである。