松岡正剛の千夜千冊・1434夜
有馬哲夫
『原発・正力・CIA』
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そこにはもっと複雑な戦後が政官財絡ませながら、
60年安保に向かって蠢いていた。
それにしても正力は、
なぜ初代原子力委員長になれたのか。
そしてなぜ科学技術庁長官と
国家公安委員長を兼任できたのか。
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以下、事態進行の概略を一応の順を追って書いておくが、正力松太郎がどんな前半生を歩んだかということについては、佐野眞一『巨怪伝』(769夜)のときにあらかた紹介しておいたので、ここでは省く。
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占領下の日本にとって、1949年10月に中華人民共和国が成立したことと、1950年6月に朝鮮戦争が勃発したこと、同7月に日本でも“赤狩り”が始まったことが大きかった。2・1ゼネストは中止され、下山事件・三鷹事件・松川事件などが仕組まれた。松本清張(289夜)がことごとく暴いたことである。
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51年に公職追放は解除されたが、吉田は鳩山に政権を渡そうとはしなかった。鳩山は離党と復党をくりかえしつつ、日本民主党の結成に向かった。この吉田と鳩山のシーソーゲームを睨んでいたのが読売新聞グループの総帥・正力松太郎だった。
正力は「マイクロ波通信網」を構想していた。マイクロ波は第二次世界大戦中にレーダー開発によって注目され、その後は音声・映像・文字・静止画像などの大量情報を高品質で伝送できるため、放送と通信の両方に用いることが可能そうだった。正力はこの通信網を全国に張って、ラジオ・テレビ・ファクシミリ・データ放送・警察無線・列車通信・自動車通信・長距離電話などの多重サービスを一手に握ろうと考えていた。1953年8月、正力は日本テレビを開局するが、その名称が「日本テレビ放送網株式会社」であったのは、この通信網構想を反映していた。
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そんな折りの1953年9月、怪文書がばらまかれた。「正力は100万ドルの借款を売るためにアメリカ国防総省と密約を結んだ、これは国民のための通信インフラを外国に売り渡すことになる」というものだ。
怪文書は衆議院の委員会でもとりあげられ、正力はこれ以上の無理押しができなくなった。著者はこの怪文書は吉田が流したものだと見ている。
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発行部数は群を抜いていたが、正力の読売にとって永遠のライバルは朝日新聞である。しかも朝日には主筆に緒方竹虎(575夜)がいた。
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とくに中曽根は53年7月から11月までハーバード大学の国際問題研究会に出席するためアメリカ滞在をして、すっかり原子力のとりこになっていた。このとき中曽根の世話をしたのはハーバード助教授だったヘンリー・キッシンジャーである。日本の再軍備と原子力が中曽根のアタマの中ではっきり結び付いた瞬間だったろう。大井篤(元海軍大佐)をアメリカに呼んだ中曽根は、しきりに軍事施設の説明案内をさせた。大井はGHQ参謀第二部(通称G2)のウィロビーと昵懇だった。
54年3月1日、アメリカのビキニ環礁での水爆実験によって近くでマグロ漁業をしていた第五福竜丸が「死の灰」で被災した(まもなく乗組員二人が亡くなった)。杉並区の住民が立ち上がると、ここに全国的な原水爆反対運動が盛り上がっていった
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かくてようやく、このあたりから日米の原子炉推進派の利害が一致するようになっていく。正力は54年8月に新宿伊勢丹ですばやく「だれにでもわかる原子力」展を催させ、会場に被爆した第五福竜丸を展示するという離れ業をやってのけた。
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1955年に入ると、事態は次々に「原発日本」に向かって進み始めた。アメリカは井口駐米大使に原子力要員の訓練と濃縮ウランの提供をちらつかせ、日本テレビは「原子力の平和利用」や映画『原子未来戦』を放映し、正力は衆議院議員に打って出て初当選をはたした。
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正力はただちに動いた。5月17日、高輪の料亭「志保原」で自由党総務会長の大野伴睦と民主党総務会長の三木武吉を会談させ、保守大合同の第一歩を踏み出せたのだ。
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正力は総理大臣にはなれなかったものの、55年年末に原子力三法(原子力基本法・原子力委員会設置法・総理府設置法)が可決されると、明けた56年1月1日に総理府に原子力委員会が発足し、そこで初代の原子力委員長に就任した。1月5日に第1回の原子力委員会で、正力は「5年以内に採算のとれる原子力発電所を建設したい」とぶち上げた。
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