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松岡正剛の千夜千冊・1532夜

松岡正剛の千夜千冊・1532夜
呉座勇一
『一揆の原理
〜日本中世の一揆から現代のSNSまで〜』
 これは百姓たちが、当時の言葉でいう「百姓成立」(ひゃくしょうなりたち)という仁政イデオロギーの持ち主だったことをあらわしている。それゆえにこそ、これらは幕末に向かっては「打ちこわし」から「世なおし」に向かっていった。これでわかるように、一揆は反体制活動ではなかったのだ。
 一揆の「揆」という文字は原義では「はかる」という意味をもつ。計画するとか、計測するという意味だ。そこから派生して「教え・方法・行為」などを意味した。孟子は「先聖、後聖、その揆は一つなり」と説明している。昔も今も聖人の国や民を治める方法は同じだということだ。
 一揆とともにたちまち「一味同心」という言葉も流行するようになった。一味は強い絆で結ばれた集団のことだから、中世では「一同」「一味」「一揆」がほぼ似たような意味になったのである。いずれもどこか運命をともにする運命共同体的なイメージをもつ。
 このとき「天狗廻状」というものが出回った。寛延2年12月3日子の刻に信夫宮代村の山王権現に集まるべしというものだ。集まって何をするのかというと、全員で連判状を書く。起請文に誓約の証しとして自署して判を捺す。ときに血判になる。寄書きを円形状に連署するときは「傘連判」や「車連判」になった。
 ついで、この連判状を神前で焼いてその灰を神水に浮かべて全員で回し飲みをする。一同が一味して神水を飲むのでこれを「一味神水」と言った。
 一方、日本人にこのような一揆の行動と意識が色濃くあったということは、やはりのことヨーロッパ型の市民革命や中国的な易姓革命のDNAは乏しいということなのだ。そのかわり、日本人は変革組織の内部的な結束に関心が強く、外部性については既存体制のさらに“上”のほうにある神仏や天皇を志向したのだった。
 それゆえ、一揆の目的ははなはだ現実的なものになっていた。社会変革のヴィジョンにもとづいていたものではなかった。