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松岡正剛の千夜千冊・1563夜

松岡正剛の千夜千冊・1563夜
宮本又次
『関西と関東』
 そうでなくとも、東京方面の「バカ/りこう」の感覚と京阪神方向の「あほ/かしこ」の感覚は、まったくその睥睨の感覚が違ってきた。『全国アホバカ分布考』(718夜)でたっぷり紹介したことだ。
 ちなみに基本的なことを言っておくと、日本人が一日三食になったのは明暦をこえてからのこと。加藤雀庵の『綿蛮草』に「今の世の如く上下とも一日三食食ふやうになり」とある。
 中世までは武家は一日二食、僧侶は一日一食だった。これは徳川の初期社会までは、「飯」といっても籾をとった玄米を甑(こしき)にかけて蒸(ふか)した強飯(こわめし)だったので、腹持ちがよかったのだ。麦や粟や稗を入れることも多かったせいもある。 
 しばしば「京の着倒れ、大阪の食い倒れ」と言われてきたものの、これは時代によって動いてきた。久須美祐雋の『浪花の風』では「京の着倒れ、江戸の食い倒れ」だった。久須美は大坂も着物のおしゃれがさかんだと書いている。
 そもそも上方とくに大坂は桃山期のころに堺から相当の舶来品がどんどこ入っていて、天和のころには女性の礼服に綸子(りんず)、絖(ぬめ)、天鵞絨(びろうど)、唐織などを着るのはざらだった。宮崎友禅斎が西陣で派手な友禅を染める気になったのは、こうした大坂の勢いに感染したからだとも言われる。西鶴(618夜)の浮世草子はこの風情に乗った。
 江戸歌舞伎は様式性を重んじ、上方は近松以来のリアリズムなのである。この上方リアリズムの意図と意表がわからないと、関西の芸能は語れない。そこを吉本お笑い主義はぐちゃぐちゃにしてしまったのだ。せめて藤山寛美や浪花千栄子に戻らなくてはあきまへん。
 けれども、これは上方風ではない。そこで貞享時代(1680年代)、道頓堀に竹本義太夫が竹本座を開いて、まったく新しい声と三味線で浄瑠璃をつくった。その台本と構想を練ったのが近松門左衛門(974夜)だった。上方言葉を用い、人形を遣い、太夫と三味線を分けた。驚くべき芸能、いや芸術だった。すでに初期の『出世景清』にして、シェイクスピア(600夜)を超えている。