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松岡正剛の千夜千冊・1648夜

松岡正剛の千夜千冊・1648夜
松井広志
『模型のメディア論
〜時空間を媒介する「モノ」〜』
 ロラン・バルト(714夜)が写真について、ステゥディウムとプンクトゥムを対比させたことがあった。これまたバルトの少女めいた写真が載って有名になった『明るい部屋』での記述だった。ステゥディウムというのはお勉強によって獲得したイメージが身につくことで、プンクトゥムはそのようなステゥディウムを壊すようなイメージが対象物からやってくることをいう。
 バルトはプンクトゥムには「私を突き刺す偶然」があると言った。ステゥディウムは名指しができるぶん、それがないとも言った。むろん、そういうこともあるだろうが、これでは必ずしも十分ではない。その「突き刺す偶然」は実はコンティンジェントな別様の可能性として、ある種の「作りもの」にはもともと芽生えているものだったはずなのである。
 こうしてここにセメダインが登場するわけだ。模型をつくるにあたっては、パーツをくっつけて再生するという作業が必須になる。糊付け(「そくい」付け)、セメダイン付け、ハンダ付け、ビス止め、ボルト・ナット締めなどがある。これらは模型工作に没頭した者に付随してやってくる「感能もしくは官能」だったのである。プンクトゥムだったのだ。ぼくに関しては、そこにたいていレンズ・フェティシズムが絡まっていた(飯田鉄『レンズ汎神論』574夜参照)。