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松岡正剛の千夜千冊・1016夜

松岡正剛の千夜千冊・1016夜
井上鋭夫『山の民・川の民』
 昔のことである。越後の国で治安が乱れて押込み盗賊が跋扈して村々が困っていたとき、後白河法皇の第三皇子の雲上公左市郎君を国主として招くことになった。
 要約すると、こうだった。石井進の要約にもとづいて紹介するが、この伝承はよくある貴種流離譚の類型にすぎず、ここから歴史的な特定をすることは不可能に見える。
 雲上公の首を焼くのに山中の真言僧がよばれ、臭水すなわち原油をふりかけて真言を唱えた ( 750夜 ) というのも、このような苛烈な加持祈祷が禁止されていた地域のことから考えると、雲上公の奉じる信仰形態とこの真言僧の信仰形態とのあいだに対立があったと推察される。
 それならば、実は山の民にあたるこうした鉱山・材木の採取に従事する職人集団の一部がしだいに修験者の太子信仰にのりかえて、ついに「タイシの徒」となったのではないか。それが地域の特定性や特質性によって川の民と交じっていったのではないか。そう考えられるのだ。これらの研究はやがて『一向一揆の研究』という大著となって実をむすぶ。
井上は粘り強くこの問題にとりくみ、中世の荘園はすべてが不輸不入権をもっているのでもなく、また国司から独立しきっているわけでもないことを証していった ( 85夜 ) のである。
 ここから先は井上がすべてを結論づけたのではなく石井進や網野善彦 ( 87夜 ) や田中圭一らが相互に組み立てていったものであるが、結論をいえば、山の民と川の民は交通や運輸の権利をもつにあたっては、小さな共同体をこえて、国司や幕府やときには天皇家に許可をもらって動いていたのではないかというものだ。