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松岡正剛の千夜千冊・1653夜

松岡正剛の千夜千冊・1653夜
田尻祐一郎
『江戸の思想史』
 こういう発想がどうして出てきたのかといえば、第1には儒の後退が国学の高揚に至っていたこと、第2にはアジア地域の後進性からの離脱を図りたくなっていたこと、第3には日本の中華意識化の加速がおこっていたこと、などによる。
 黒船はまだ到来していなかったけれど、尊王攘夷の機運はすでに用意されつつあったのである。
 横井小楠(1196夜)の先見の明と不運ほど幕末維新のシナリオを狂わせたものはないと、ぼくは思っている。勝海舟は「俺はいままでに天下で恐ろしいものを二人見た。それは横井小楠と西郷隆盛だ」と言った。巷間では「東の象山、西の小楠」とも噂された。
 吉田松陰(553夜)についてはあえて説明するまでもないだろうが、僅かな期間で命の炎を焦がすように燃やして、海市に突っ込む彗星のごとく獄中に死んでいった。自身、好んだように、その姿は草莽(そうもう)の士というものだ。
 短い生涯だったが(たった29年の生涯だ)、鮮烈な光跡を走らせた。下田に再来した黒船に乗りこもうとしたこと、松下村塾に高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋、品川弥次郎らの青年志士を育てたこと、孟子に託した思想書『講孟箚記』『講孟余話』が圧倒的な説得力をもったことなど、松陰には格段のものがあった。
 しかし、そんなことは当然だったのである。民衆の信仰はイエやムラやクニに発し、地場こそが繁栄の原動力になってほしいはずなのだ。今日の地方創成がうまくいかないとしたら、あまりに産物や商戦に頼っていて、パトリオットな信仰的愛郷力に活力がないためではないかと思われる。