松岡正剛の千夜千冊・553夜
吉田松陰
『吉田松陰遺文集』
〜
大半は瞠目させられた。なるほど松陰はすごいとおもった。とくに人脈のネットワーキングが圧倒的に多様で、高速である。松陰は21歳で平戸長崎に行くため最初の旅行をするのだが、このときすでに横井小楠をはじめとする後の幕末の志士となるような連中を丹念に訪れているし(西遊日記)、23歳で江戸に遊学してさらに東北に進んだときは、会沢正志斎から佐久間象山まで、水戸の時習館の森田哲之進から来原良蔵まで、目ぼしい人物には片っ端から会っている(東遊日記・東北遊日記)。
〜
この「諌死」(かんし)という言葉に、松陰の思想とその後に松陰に憧れた日本人の思想がよく象徴されている。
〜
松陰のいう諌死は、諌言することの許される者が諌めたことによって与えられる誅罰としての死ではなく、諌言を許されない者が主君の感悟を求めるために死ぬことなのである。まさに死と直結する諌言であり、それゆえ新たな諌死思想というものなのだ。
〜
こうなると、松陰の思想はいよいよ「草莽」というべきである。のちに水戸学や国学と松陰が結びつけられて論じられるようになるのも、このへんからだった。
〜
首尾一貫しているとおもわれる松陰の思想と行動は、実はこのように挫折に挫折を重ねた日々だったのである。シナリオは何ひとつとして実現しなかった。志士の「諌死」はおこらず、諌言は門下生によって師にむけられた。列強に屈しない者はことごとく捕縛され暗殺され、公武は意外にも合体の気味を見せ、ついに攘夷開国はおこらない。
松陰はついについに、自分が東国の果ての野辺で散っていくことを知る。
〜