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松岡正剛の千夜千冊・1661夜

松岡正剛の千夜千冊・1661夜
前田勉
『江戸の読書会
 - 会読の思想史 - 』
 目次読書、要約読書、図解読書などに凝ったり、若いときは逆読に耽ったりしたこともある。逆読とは後ろのページからパラグラフごとに読んでいくというもので、これはシュタイナー(33夜)からのヒントだった。
 何人かが寄り合って一冊の本や数冊の本を読みあうというのは、けっこう実感知が高まる。やってみればすぐに感じるだろうが、アタマに入りやすくもなる。読み方も理解も、動的になるからだ。歴史的には読書行為は長らく「音読」の時代があって、そののちに「黙読」が広まったわけだけれど、いまもって声を出しあうのはかなり有効だ。空海(750夜)はそのことを「内声(ないしょう)の文字」が動くと言った。
 熊本は「人才」の育成にたいへん熱心で、この特色は幕末維新をへて横井小楠(1196夜)やジェーンズの英語教育や徳富蘇峰(885夜)にまでつながっている。熊本、恐るべし。その知的馬力はたいしたものだ。
 小集団研究所を主宰してきた上田利男の『夜学』(759夜)を紹介したときにも触れたのだが、但馬聖人と噂された池田草庵の青谿(せいけい)書院では、とくに「掩巻」(えんかん)と「慎独」(しんどく)を試みた。掩巻は本を少し読んだらそこでいったん頁を伏せ、いま読んだばかりの中身をあらためて味わってから次に進むという読書法だ。ぼくはけっこう真似させてもらった。慎独は他人を欺かないようにするのは当然だが、読書によって学問するには「自分を欺かないようにしなさい」というものだ。これも心にしたいことである。
 そうなのである。江戸の私塾は慎み深くて頑丈で、その精神はすこぶる戦闘的だったのである。